第九十章 風の詩、界を結ぶ
魔界北端・ザイラの階。
その遺跡は、風が音を運ぶ特異な地形により、
古来より儀礼や調律の場として知られていた。
式典まで、あと十一日。
あやのは、その音響の中心に立ち、ただ目を閉じていた。
周囲には誰もいない。
蘇芳も、司郎も、梶原も、いまはそっと距離を取ってくれている。
彼女は、石盤の中央に腰をおろし、
深く、深く、呼吸した。
──聞こえてくるのは、“記憶の音”。
龍界の薬研をすりつぶす音。
月麗の衣擦れ、ふと笑った声。
風が薬棚を鳴らす、あの柔らかな余韻。
そして──
「君の声は、風みたいだね」
あのひとこと。
指先が、自然と動いた。
膝に置かれた小さな紙に、黒墨の筆が触れる。
言葉ではなく、音が降ってくる。
意味を持つ以前の、旋律の核。
あやのはそれを、すくうように書き留めていく。
ひとつ、またひとつ。
──それは詩であり、呪であり、祈りでもあった。
「界を渡る風の詩」(下書き)
音はただ、風のなかで名を持たず
名はただ、記録のなかで意味を超え
わたしは器
わたしは橋
あなたが渡った風は、わたしのなかで灯となる
その灯が、界をゆらがせぬように
その音が、誰のこころも裂かぬように
わたしは、うたう
名を忘れたまま──
──この詩の主語は、誰でもなくてよかった。
それはあやのであり、龍王であり、
すべての「界を渡った者」のための詩。
**
日が傾く頃。
司郎が、いつの間にか階段の上から見下ろしていた。
「……うん。言葉にしない言葉、ちゃんと聴こえたわよ、あんたの詩」
あやのは振り返らなかった。
ただ、紙を静かに胸元へたたんだ。
「これは、式典で“響かせる”だけ。詠むものじゃない」
「わかってる。でも、それでも……あんた、泣いてる」
──気づいていた。
知らず、あやのの頬を一筋の涙が伝っていた。
「……風の中に、あの人の音が、残ってて」
声がかすれた。
司郎はそれ以上何も言わず、
ただ一歩、そっと階段を降りてきて、
彼女の頭にぽん、と手を置いた。
「どんな風でも、どんな音でも、あんたが受けとめたなら、それは“ここ”に残る。このザイラの階も、きっとそれを記録してくれるわ」
あやのは、静かに頷いた。
その掌のぬくもりもまた──詩の一部だった。




