第八十九章 風、歩を持って訪れる
魔界・記録庁南門。
朝霧がまだ低く漂う中、封印された古き魔道門が、
三百年ぶりに正式な来訪を受ける準備を整えていた。
門前には、記録者・真木あやのを中心に、補佐僧・蘇芳、建築顧問・司郎正臣の姿。
その背後には、魔界外交庁の儀礼官らが列を成している。
「……空が鳴ってるわね」
司郎がふと空を見上げた。
聞こえるのは、風に揺れる音紋──
“龍界の使者”が結界門を越えて来る際に、空間そのものが発する共鳴。
蘇芳が控えめに確認する。
「予定どおり、まもなく門が開きます。あやの様、心の準備を」
「……ええ。だいじょうぶ」
あやのは、しっかりと頷いた。
その装いは簡素でありながら、袖口には龍界の布が一筋、静かに縫い込まれている。
誰も気づかない、彼女だけの印だった。
やがて──
音もなく、南門が開いた。
まず現れたのは、金色の風だった。
それは香のように薫り、布のように揺れ、結界の中から柔らかく広がった。
次に、その風を割って、二人の使者が姿を現した。
ひとりは、銀白の髪を編んだ青年。
もうひとりは、緋衣をまとう半龍の女官。
だが、誰の目にもまず焼きついたのは、その背後。
──空に浮かぶ、龍の筆致で描かれた“鱗の紋章”。
それはすなわち、龍王・月麗直筆の名代であることを示していた。
あやのは、静かに一歩前へ出た。
「……魔界・記録庁にて、記録者の任にございます真木あやのと申します。龍王の御使、ようこそお越しくださいました」
銀髪の青年が、深く頭を垂れた。
「──龍界・外記官、龍蓮と申します。本日、龍王陛下より預かりし文をもって、貴界へのご挨拶といたします」
文書が手渡された瞬間、
風が微かにうねり、あやのの髪を揺らした。
その中に──月麗の気配が、確かにあった。
**
その後、使者一行は記録庁・応接の間へと通され、
簡略ながらも格式を保った茶礼の儀が整えられた。
龍蓮は、礼儀正しくも冷静な若者であったが、
一つだけ、彼が文を広げたとき、あやのの表情に微かな変化が走った。
そこには、たったひと筆の余白があった。
《──記録者殿へ。風は覚えています。ぼくの“詩”を。》
誰にも見えない書き込み。
墨の色すら異なる、明らかに私的な書であった。
あやのはそれに、手を添えるだけで返事をしなかった。けれどその瞬間、司郎と蘇芳はそれぞれ違う形で“気づいて”いた。
司郎は、ただ微笑んだ。
「……ああ、まったく。こういうのって、どこまで仕事でどこまで私事か、線引きが難しいのよねえ」
蘇芳は一瞬視線をあやのに送ったが、
なにも言わず、目を伏せた。
**
この日、龍界と魔界は正式に「門の同調と外交儀式」の日程に合意した。
最初の式典は十三日後、魔界北端の音響遺跡“ザイラの階”にて挙行予定。
記録者・真木あやのは、その進行役と“響導者”の任に就くことが決定される。
──風は流れ始めた。
だが、その中に忍ぶ“私的な音”の存在が、
この先の均衡に、微かな揺れをもたらすことを、
まだ誰も知らなかった。




