表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星眼の魔女  作者: しろ
403/508

第八十七章 少し遠くて、ちょっと近い

夜更け。魔界の庁舎にて。


記録庁の回廊は、人影もまばらで静まりかえっていた。

石造りの床に足音だけが響く。


あやのは、手に鱗の包みを持ち、まだ開いていない龍王の書簡とともに、自室へと戻る途中だった。


そのとき──


「……帰りか」


ふと、柱の影から声がした。


梶原國護だった。

無言で立ち、暗がりに半ば溶けるようにしていたが、

あやのの姿を見つけると、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「もう遅いよ」


「……知ってる。でも、顔を見に来た」


梶原は、あやのの表情をじっと見た。

彼の瞳には、どこか“確認する”ような視線が宿っている。


あやのは立ち止まり、ほんの少し首を傾げた。


「何か、変わった?」


「……いや。変わったのは、おれの方かもしれない」


静かにそう言って、梶原は視線を外した。

その横顔に、見慣れた無骨さとは違う、わずかな戸惑いがにじんでいる。


「司郎さんに、言われたんだ。

“あんたのほうが、遠くなったかもね”って」


あやのは目を瞬かせた。


「……梶くんが?」


「おれは……お前がいない間ずっと、“帰ってくる場所”を守ることしか考えてなかった。でも、帰ってきたお前を見て……あれ? ってなった」


「……どういう?」


「ちょっと綺麗すぎて」


それは思わず漏れた本音だった。


言ってしまってから梶原は目を伏せ、

言葉を選び直すかのように口をつぐむ。


「前は、もっと近くにいた。すぐそばで、手も届いた。でも今は……なんか、触れたら、壊しそうでさ」


あやのは、静かにそれを聴いていた。


──触れられない。

──でも、触れてほしい。


そんな矛盾が、ふたりのあいだに漂っている。


彼女はふっと、口を開いた。


「……あたしも、ちょっとよく分からなくなってるの」


「分からなく?」


「うん。……梶くんのこと、いつもそばにいる人だって思ってた。でも、“ずっといた”人が、“これからもいる”とは限らない。……龍界で、そう思ったの」


その声には、寂しさというより、“真剣な確認”の響きがあった。


梶原は答えなかった。


ただ、彼女の傍へ一歩、近づいた。


あやのはほんの少しだけ後ずさった。

その距離は、指先の幅ほど。けれど、確かに一歩ぶん。


梶原の手が、宙で止まった。


「……ごめん、いまは、まだ……無理」


「分かってる。無理させたくて来たわけじゃない。ただ、顔が見たかっただけだ」


そして彼は、ふっと口元をゆるめた。


「でも、変わらなくていい。……お前がお前であるなら、それでいい。近くても、遠くても、そういうもんだって……分かってきた」


あやのは、すこし驚いたように彼を見た。


そして、声を出さずに笑った。


──この人は、変わらないと思ってた。

でも、変わっていた。

ちゃんと、彼なりに、変わっていた。


言葉ではなく、距離感で。

不器用な優しさで。


「ありがとう、梶くん」


その声は、まっすぐだった。


距離はまだある。

けれど、そこに吹く風はやさしかった。


**


梶原は立ち去るとき、ふと立ち止まって振り返る。


「……お前の歌、龍界で聴こえたんだ。風に乗って」


あやのの目が、かすかに揺れる。


「泣いた」


「……うん」


それだけ告げて、彼は夜の回廊へと消えていった。


あやのは、手に持った鱗の包みを胸に抱いた。


──まだ答えは出せない。

でも、迷っているだけじゃない。


そんな気持ちを、彼女はひとり確かめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ