第八十七章 少し遠くて、ちょっと近い
夜更け。魔界の庁舎にて。
記録庁の回廊は、人影もまばらで静まりかえっていた。
石造りの床に足音だけが響く。
あやのは、手に鱗の包みを持ち、まだ開いていない龍王の書簡とともに、自室へと戻る途中だった。
そのとき──
「……帰りか」
ふと、柱の影から声がした。
梶原國護だった。
無言で立ち、暗がりに半ば溶けるようにしていたが、
あやのの姿を見つけると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「もう遅いよ」
「……知ってる。でも、顔を見に来た」
梶原は、あやのの表情をじっと見た。
彼の瞳には、どこか“確認する”ような視線が宿っている。
あやのは立ち止まり、ほんの少し首を傾げた。
「何か、変わった?」
「……いや。変わったのは、おれの方かもしれない」
静かにそう言って、梶原は視線を外した。
その横顔に、見慣れた無骨さとは違う、わずかな戸惑いがにじんでいる。
「司郎さんに、言われたんだ。
“あんたのほうが、遠くなったかもね”って」
あやのは目を瞬かせた。
「……梶くんが?」
「おれは……お前がいない間ずっと、“帰ってくる場所”を守ることしか考えてなかった。でも、帰ってきたお前を見て……あれ? ってなった」
「……どういう?」
「ちょっと綺麗すぎて」
それは思わず漏れた本音だった。
言ってしまってから梶原は目を伏せ、
言葉を選び直すかのように口をつぐむ。
「前は、もっと近くにいた。すぐそばで、手も届いた。でも今は……なんか、触れたら、壊しそうでさ」
あやのは、静かにそれを聴いていた。
──触れられない。
──でも、触れてほしい。
そんな矛盾が、ふたりのあいだに漂っている。
彼女はふっと、口を開いた。
「……あたしも、ちょっとよく分からなくなってるの」
「分からなく?」
「うん。……梶くんのこと、いつもそばにいる人だって思ってた。でも、“ずっといた”人が、“これからもいる”とは限らない。……龍界で、そう思ったの」
その声には、寂しさというより、“真剣な確認”の響きがあった。
梶原は答えなかった。
ただ、彼女の傍へ一歩、近づいた。
あやのはほんの少しだけ後ずさった。
その距離は、指先の幅ほど。けれど、確かに一歩ぶん。
梶原の手が、宙で止まった。
「……ごめん、いまは、まだ……無理」
「分かってる。無理させたくて来たわけじゃない。ただ、顔が見たかっただけだ」
そして彼は、ふっと口元をゆるめた。
「でも、変わらなくていい。……お前がお前であるなら、それでいい。近くても、遠くても、そういうもんだって……分かってきた」
あやのは、すこし驚いたように彼を見た。
そして、声を出さずに笑った。
──この人は、変わらないと思ってた。
でも、変わっていた。
ちゃんと、彼なりに、変わっていた。
言葉ではなく、距離感で。
不器用な優しさで。
「ありがとう、梶くん」
その声は、まっすぐだった。
距離はまだある。
けれど、そこに吹く風はやさしかった。
**
梶原は立ち去るとき、ふと立ち止まって振り返る。
「……お前の歌、龍界で聴こえたんだ。風に乗って」
あやのの目が、かすかに揺れる。
「泣いた」
「……うん」
それだけ告げて、彼は夜の回廊へと消えていった。
あやのは、手に持った鱗の包みを胸に抱いた。
──まだ答えは出せない。
でも、迷っているだけじゃない。
そんな気持ちを、彼女はひとり確かめていた。




