第八十六章 記録の書架、外交のはじまり
魔界・記録者の居館──最上階の回廊。
時刻は昼を過ぎたばかりで、赤金の光が書棚を照らしていた。
あやのは机に向かっていた。
手元には、龍界で手に入れた資料の写し──
龍仙洞で見た薬草の分類図、龍脈の調律構造、そして“王の揺らぎ”によって一時失われた界の均衡についての詳細な観察記録。
彼女の筆は止まらない。
星眼を封じていても、一度見たものを正確に記憶し、書き起こす能力は消えてはいなかった。
蘇芳がその様子を、すぐ傍で静かに見守っていた。
「……以前より、筆の運びが早くなられましたね」
「ええ。記録者らしく、なれてきたのかもしれません」
あやのは穏やかに答えた。
だが、その目の奥には、龍界で見たあの玉座──
月麗=龍王の最後の横顔が、まだ微かに焼きついていた。
「外交の件ですが、月麗……いえ、龍王より、書簡が正式に届きました。これは先ほど、司郎さんの手元にも」
蘇芳が差し出した巻物には、龍界の朱印と龍王の個印が並び押されていた。
あやのは巻物を受け取り、封を切ることなく胸元へしまった。
「……読まないのですか?」
「……いずれ。いまは、記録を先に整えないと。外交の基盤は、まず“正確な記録”から」
その言葉に、蘇芳はふと目を細めた。
彼女はやはり、変わったのだ。
龍王に出会い、愛され、選ばずに戻ってきた少女は、
もはや「記録するだけの人」ではない。
──記録をもって、世界をつなぐ者になろうとしている。
**
その日の午後、記録庁の円卓にて。
あやのは、初めて“外交使者”としての席に着いた。
同席したのは、魔界の評議官たち。そして建築顧問・司郎正臣、戦略技官・梶原國護、補佐僧・蘇芳。
そして──円卓の中央には、彼女が手ずから書き上げた「龍界・界記録第一稿」が置かれていた。
「以上が、龍界における調律異変、およびその安定に至る過程の報告です」
堂々とした口調ではなかった。
けれど、誰の耳にも静かに染み込むような、そんな声であった。
記録官のひとりが口を開いた。
「……この“調律”という概念。魔界側の気脈とも通ずるものがありますな」
別の者が続ける。
「龍王が『外界との往来を一部解禁する』と明言したのは、史上初です。記録者として、真木あやの殿を窓口とする、という記述も──これは非常に重い意味を持ちます」
沈黙が落ちた。
やがて司郎が、ふっと口を開く。
「──あたしの設計案が通ったわけじゃないけど、ま、音がすべてを繋いだってことよ。ね、あやの」
「……はい」
あやのは静かに頷く。
その顔に、誰もが微かな気配を読み取っていた。
少女ではない、使者としての覚悟。
それは言葉よりも強く、声よりも深く──場に伝わった。
評議官が言った。
「では、正式に。龍界との接続外交は、記録者・真木あやの殿を起点として開始する。異論、ある者は?」
誰も答えなかった。
その瞬間、ひとつの世界が、音を介してまた別の世界へとつながった。
──それは、あやのが“選ばなかった”者たちの愛によって支えられた、かけがえのない航路のはじまりだった。
**
会議の後。
一人残ったあやのは、まだ開かれていない龍王からの書簡を静かに見つめた。
そっと封を撫でる。
「……君がどこにいても、誰と居ようと。ぼくが鱗を渡した相手は君。番であることを忘れないで──」
音のような声が、記憶の中で静かに響いた。
けれどあやのは、それを封じたまま、席を立った。
星眼の奥に沈めたその音は、まだ、誰にも見せるものではなかった。




