第八十四章 界の門が開く時
風が戻ってきていた。
龍脈は安定し、薬草は芽吹き、天頂に漂っていた雷気は静かに溶けていった。
界はひとつの呼吸を終え、あらたな周期に入った。
王が戻ったからだ。
月麗が“王”としての座に、もう一度、自らの意思で帰還した。
かつてのように冷たくも厳かでもない。
むしろ、微笑みさえ宿していた。
「──界は孤立しすぎた。音が届かない場所は、滅びへと近づく」
そう言って、月麗は開かれざる門の修復を命じた。
龍界と外界──特に魔界、そして人間界との“道”を少しずつ復元させること。
それは、かつて王自身が拒んできた道だった。
だが今は違う。
君の声を聴いたあとでは、閉ざされた世界が正しいとは思えなくなっていた。
老龍たちは慎重だったが、もはや反対はなかった。
龍王の変化が、“界を生かす風”であると、皆が理解していた。
**
──そして、数日後。
あやのは荷をまとめていた。
といっても、鱗とリュートと、少しの書簡だけ。
魔界へ戻ることは、簡単だった。
その先に何が待つかは分からないけれど──
「……いまのあたしには、まだ音が残ってる」
その音を、誰かに伝えるために。
あるいは、自分のために。
だからこそ、ここを出る。
もう、界の音が整った今なら、心残りなく──
「──出るの?」
声がして、あやのが振り返ると、
そこには王冠も羽織もない、月麗が立っていた。
玉座の王ではなく、
ただの男としての彼が、そこにいた。
「……うん」
あやのは笑った。
「あなたが“王”として戻ってくれたから、安心して出られる」
「……そうか」
月麗は静かに頷いた。
ほんの一瞬、寂しさのようなものが目をかすめた。
だが、それを口にしないのが彼だった。
「君がどこにいても、誰と居ようと──」
あやのが少し肩を震わせたそのとき、
彼は続けた。
「……ぼくが鱗を渡した相手は、君だ。それは、界において“番”という証明だ。選ばなくてもいい。呼ばなくてもいい。でも──忘れないで」
彼の声は、まるで風のようだった。
静かで、届く。
強くはないが、心に留まる。
「君のいないこの界を、ぼくは守る。いつか、また風が巡る時が来るなら──そのとき、もう一度、君の音を聴かせて」
あやのは、黙って鱗を両手で包んだ。
「忘れないよ。……でも、名前はまだ呼ばない」
「知ってる」
月麗は微笑んだ。
そして、ふたりは別れた。
過不足なく、未来を抱いて。
**
龍界の門が開く。
風が変わる。
音が、またどこかへと流れてゆく。
少女は旅立った。
王は残った。
けれどその“響き”は、どこまでもふたりを繋いでいた。
──音は、声よりも遠くへ届く。
そう信じられる者たちの、未来への別れだった。




