第三十九章 静寂を裂く、はじまりの音
旧蔵前コンサートホールの再オープンは、あくまで静かに──というのが東堂教授の方針だった。
華やかな広告も、特別な演出もない。
ただ、あの空間に戻ってきた音を、人々がそれぞれの理由で聴きに来る。
それだけで十分だという考えだった。
けれどその日、扉の前には静かな列ができていた。
年配の夫婦、譜面を持つ若い音大生、古びたホールでバイトをしていたという初老の男性。
みな小声で話し、時折、ホールの外壁を見上げては目を細める。
あやのは開場前、ひとり舞台裏のピアノに触れていた。
音を鳴らすわけではない。
ただ、鍵盤に手を置き、今日という一日が無事に終わるよう祈っていた。
きっと、ここで演奏する者すべてが、少なからず“何か”と対峙しているのだと、あやのは思った。
ホールの照明が少しだけ落とされ、開演を告げる静かなチャイムが鳴る。
拍手はない。
客席の誰もが、目の前の空間の変化を、じっと見つめていた。
最初の演奏は、《Silent Requiem:第0楽章》。
ピアノの一音目が鳴った瞬間、場内の空気が、まるで息をのんだように凍りついた。
それは、音というより、空気の“密度”だった。
聴衆の誰もが、その音の“重さ”に飲まれていた。
旋律はゆるやかに、けれど確実に空間を包み込む。
ホールの回廊を伝って、見えない手のように観客ひとりひとりに触れる。
照明がわずかに明るくなり、舞台の奥にあった白布が風もないのにふわりと舞った。
客席の最前列で東堂教授が、帽子を胸に抱えたまま目を閉じていた。
その頬には、一筋の涙がこぼれ落ちた痕があった。
演奏が終わった時、拍手も歓声もなかった。
ただ、深い深い沈黙と、胸の中でじんわりと音が残るような余韻がそこにあった。
それを、誰も壊そうとしなかった。
終演後、客席を後にする人々の顔には、それぞれ違う感情が刻まれていた。
笑顔の人。泣いていた人。なぜか頭を下げて去っていく人もいた。
舞台裏に戻ったあやのは、ピアノの鍵盤にそっと触れた。
もう、冷たくはなかった。
木と金属と、空気と光でできたその楽器が、確かに“誰かの気配”を宿しているように感じた。
「ありがとう」
そう小さくつぶやいた瞬間、照明の陰にいた東堂教授が歩み寄ってきた。
「これは、君の音楽だったのか。それとも、あの子の……」
「どちらでもありません。きっと、ここに来てくれたすべての人の記憶が、“音”になったんです」
あやのはそう言って、静かに微笑んだ。
教授もまた、かすかに微笑んだ。
「……ああ、確かに。そうだな」
その夜、あやのが“出るビル”に帰ったのはずいぶん遅い時間だった。
でも、建物の中はぽかぽかと暖かかった。
台所には梶原が煮物を温めており、司郎がソファに座っていた。
「おかえり、天才ちゃん」
司郎がぼそりと言い、梶原が手ぬぐいをあやのの首に巻いた。
「冷えてただろ」
「……うん、でも、いい音だった」
あやのはそう言って、久しぶりに深く息を吐いた。