第四章 追走の午後
逃げている、とは思っていなかった。
ただ、歩いていた。速く。人の流れと逆らわず、でも確実に距離を取るように。
真木あやのの靴音は、石畳の坂道に静かに響いていた。函館の旧市街は観光地でもあるため、坂が多い。車輪のついたスーツケースの音、シャッターを切る音、潮風にまぎれた歓声――それらすべての隙間を縫うようにして、あやのの気配は溶け込んでいた。
……しかし、やはりついてくる。
甲斐大和。名も知らぬその少年は、遠すぎず近すぎず、一定の間合いを保ちながら歩いていた。追い詰めるでもなく、諦めるでもなく。ただ「見失いたくない」という意思だけを燃やしていた。
その気配は、あやのの背中に突き刺さる。
火照るような、冷えるような、得体の知れない執着。
海が見える。
あやのはふと路地を抜け、小さな防波堤のある港へ足を向けた。観光客の足が途絶えるその一角は、誰にも気づかれず、ただ風と波の音に満たされていた。
ここで終わらせるべきか。
それとも――もっと深く巻き込むのか。
自分が、普通ではない存在であることを、あやのは理解している。
人間でもなく、妖怪でもなく、命の輪郭が曖昧な自分を、この少年が見つけてしまったこと。それは、運命というよりも、事故に近い。けれど――事故でも、火は燃える。
背後で足音が止まった。
振り返らずともわかる。距離は数メートル。相手は、まだ息を切らしてもいない。
あやのはその場に立ち尽くした。
波の音。遠くでカモメが鳴く。どこかで鐘の音が鳴った。
時間の感覚がぼやけていく中で、背後の気配がにじり寄る。
じり、じり、と。
やがて、足音が止まる。
あやのはゆっくりと振り向いた。風に髪が舞う。真珠色の細い毛先が、夕陽を受けて淡く輝いた。
甲斐大和の顔は、ほんの少し、戸惑いに染まっていた。
この距離。ここまで近づいたのは初めてだった。
それでも、あやのの目を正面から見つめることだけはやめなかった。
あやのは、ただ見返す。
敵意はない。ただ、拒絶がある。
受け入れられない。受け入れてはならない。
それは、直感だった。相手の内側にある「何か」に火がついてしまうことへの、純粋な警戒だった。
……それでも、甲斐は動いた。
何かを言いかけた口を閉じ、手を伸ばす。届かぬ距離と知りながら、触れようとするように。
その動きに、あやのの中の何かがはじけた。
風が一閃。空気が揺れた。
一瞬のうちに、あやのは後ろへ跳んだ。猫のような動きで着地し、そのまま防波堤を蹴って路地裏へ走る。
驚いたような気配が一拍遅れて追ってくる。
――そう、ようやく「逃げる」ことになったのだ。
靴音が続く。背後にはもう確かな執着がある。
名前も知らぬ者同士の追走劇が、函館の夕暮れに音を立てて広がっていく。
あやのは思った。
これは、最初の逃亡だ。
どこへ行っても、きっとこの「気配」は追ってくる。
そして彼は思う。
これは、最初の出会いだ。
どこへ逃げられても、あの「光」は追いたくなる。
互いの想いは、交差することなく、ただ並走していた。
まだ名も知らぬまま、心の温度だけを交換して。
そして、夜が来る。