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星眼の魔女  作者: しろ
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第八十三章 風に還る、その名を呼ばずに

龍界は、揺れていた。


かすかな気流のねじれ。

龍脈の鼓動に微細なひずみ。

低層の空を走る“声なき雷鳴”。


それは、王の心が崩れかけていることの証だった。

月麗=龍王が「個」としての感情に飲まれかけ、“中枢”としての役割を手放しかけていた。


界の龍たちはざわつき、老龍たちは沈黙し、

薬局《龍仙洞》の秤さえ、正確な重さを計れなくなりつつあった。


──王が壊れれば、界が壊れる。


けれど、王に王であることを強いることは、もう誰にもできなかった。


唯一、その“音”を聴いた者を除いては。


**


あやのは、祈るように目を閉じていた。


彼を愛してはいけない。

彼を拒むこともできない。

選べないことが、誰かを傷つけると知って、それでも。


それでも。


「わたしは……歌う。すべてが壊れないために」


それが、彼女にできる唯一の抵抗だった。


名を呼ばない。

でも、その存在を肯定する。


──“あなたがそこに在る”ことを、この声で証明する。


**


彼女が歌い出すと、風が止まった。


空が音を失ったのではない。

音が、すべての風を制したのだ。


それはあやのが綴った、風の叙事詩。

王の孤独と矛盾、優しさと矜持、そして、彼女自身の迷いと祈りのすべてが、一つに織られていた。


その旋律は、呼吸より静かで、鼓動より深かった。


君を呼ばずに、君を伝える。

奪わずに、与える。

愛を告げずに、愛を遺す。


──それが、記録者・真木あやのの選んだかたちだった。


龍界に張り巡らされた龍脈は、その音に共振した。

かすかに軋んでいた大地が静まり、浮遊していた薬草が、そっと元の秤へ舞い戻る。


そして、玉座に沈んでいた月麗の身体も、

ゆっくりと、呼吸を取り戻していく。


その目が開かれたとき──


彼は、もはや王ではなかった。

だが、王であろうとする意志を、もう一度、取り戻していた。


「……君の歌が、界を繋ぎとめたんだね」


彼は呟いた。


それは感謝ではなかった。

赦しを乞うでも、恋を告げるでもなかった。


ただ、心からの認識だった。


あやのは黙って頷いた。


「名は呼べない。けど、あなたは……あなたのままでいていい」


それは、ある意味で、もっとも重い愛のかたちだった。


**


龍界の気が静かに整っていく。


その中心で、歌い終えた少女はリュートを置き、静かに立ち尽くしていた。


彼女の声は、どこにも記録されなかった。

けれど、界の空気に染み込むようにして──永遠に、風の中へと残った。


王は再び玉座に戻る。

月麗としてではなく、「王」へ還る決意をもって。


その背に、少女の気配はもうなかった。

それでも彼は、もう一度だけ、心の中で呟いた。


──“君の名は、風の中で呼ばれ続けるだろう”


王は笑った。


愛してしまったことを、悔やまない自分に。


愛されたまま、選ばれなかった彼女に。


そして、それでも界を救ってくれた“音”という名の少女に。

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