第八十三章 風に還る、その名を呼ばずに
龍界は、揺れていた。
かすかな気流のねじれ。
龍脈の鼓動に微細なひずみ。
低層の空を走る“声なき雷鳴”。
それは、王の心が崩れかけていることの証だった。
月麗=龍王が「個」としての感情に飲まれかけ、“中枢”としての役割を手放しかけていた。
界の龍たちはざわつき、老龍たちは沈黙し、
薬局《龍仙洞》の秤さえ、正確な重さを計れなくなりつつあった。
──王が壊れれば、界が壊れる。
けれど、王に王であることを強いることは、もう誰にもできなかった。
唯一、その“音”を聴いた者を除いては。
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あやのは、祈るように目を閉じていた。
彼を愛してはいけない。
彼を拒むこともできない。
選べないことが、誰かを傷つけると知って、それでも。
それでも。
「わたしは……歌う。すべてが壊れないために」
それが、彼女にできる唯一の抵抗だった。
名を呼ばない。
でも、その存在を肯定する。
──“あなたがそこに在る”ことを、この声で証明する。
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彼女が歌い出すと、風が止まった。
空が音を失ったのではない。
音が、すべての風を制したのだ。
それはあやのが綴った、風の叙事詩。
王の孤独と矛盾、優しさと矜持、そして、彼女自身の迷いと祈りのすべてが、一つに織られていた。
その旋律は、呼吸より静かで、鼓動より深かった。
君を呼ばずに、君を伝える。
奪わずに、与える。
愛を告げずに、愛を遺す。
──それが、記録者・真木あやのの選んだかたちだった。
龍界に張り巡らされた龍脈は、その音に共振した。
かすかに軋んでいた大地が静まり、浮遊していた薬草が、そっと元の秤へ舞い戻る。
そして、玉座に沈んでいた月麗の身体も、
ゆっくりと、呼吸を取り戻していく。
その目が開かれたとき──
彼は、もはや王ではなかった。
だが、王であろうとする意志を、もう一度、取り戻していた。
「……君の歌が、界を繋ぎとめたんだね」
彼は呟いた。
それは感謝ではなかった。
赦しを乞うでも、恋を告げるでもなかった。
ただ、心からの認識だった。
あやのは黙って頷いた。
「名は呼べない。けど、あなたは……あなたのままでいていい」
それは、ある意味で、もっとも重い愛のかたちだった。
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龍界の気が静かに整っていく。
その中心で、歌い終えた少女はリュートを置き、静かに立ち尽くしていた。
彼女の声は、どこにも記録されなかった。
けれど、界の空気に染み込むようにして──永遠に、風の中へと残った。
王は再び玉座に戻る。
月麗としてではなく、「王」へ還る決意をもって。
その背に、少女の気配はもうなかった。
それでも彼は、もう一度だけ、心の中で呟いた。
──“君の名は、風の中で呼ばれ続けるだろう”
王は笑った。
愛してしまったことを、悔やまない自分に。
愛されたまま、選ばれなかった彼女に。
そして、それでも界を救ってくれた“音”という名の少女に。




