第八十二章 風のひずみ、音の涙
風が、鳴いていた。
耳を澄まさなくても、あやのにはそれが分かった。
この龍界に流れる気の“音”が、微かに、けれど確実に濁っていた。
──調律がずれている。
泉の水音、岩に当たる風、龍鱗の間をすり抜ける気流。
それらは昨日まで、完璧なまでに調和していた。
この世界はまるで、音楽の殿堂だった。王の存在を軸に、すべてが音律のように支えられていた。
けれど今──その根が、かすかに軋み始めている。
あやのは小さなリュートを抱え、何度も指を滑らせた。
昨日と同じ旋律を奏でているはずなのに、どこかに“不協和音”が混ざる。
「……ちがう」
指先が止まる。
目を閉じて、静かに空気を読む。
すると、微細な音の流れの中に、たったひとつだけ──不自然な震えがあった。
それは、風のひとすじ。
音にならない音。
まるで、誰かが胸の奥で押し殺した嗚咽のようだった。
──月麗?
その名を呼びそうになって、あやのは唇を噛んだ。
王としての彼を、個人としての彼が侵食している。
そのゆらぎは、この界全体の気の流れに“ゆがみ”をもたらしていた。
音を聴く者として、いや──音を愛してしまった者として、あやのは気づいてしまった。
「……どうして、そんなに苦しむの」
彼女は声に出さなかった。
ただ、リュートの弦にそっと触れ、震える指を押し留めた。
彼の心が砕ける音が、風の奥に混ざっていた。
強くあろうとする音。
王でありながら、ひとを愛してしまった音。あたしを奪いたいと願いながら、触れられない矛盾の音。
そして、それらすべてが、まるで“破れかけた音楽”のように──この世界の美しさそのものを蝕み始めていた。
**
「……これ以上、壊れてほしくない」
ぽつりと、あやのは呟いた。
それは、自分のためでも、彼のためでもない。
“音”のためだった。
この世界に満ちる、まだ完全に壊れていない音楽のため。
音が死んでしまえば、龍界は終わる。
月麗という男も、龍王としての尊厳も──すべてが、戻らなくなる。
彼女は鱗を抱きしめた。
そして、胸の奥で強く思った。
──あなたが、あなたのままでいられるように。
**
その夜、あやのは再び歌を紡いだ。
風の調べを頼りに、彼の心を繋ぎとめるように。
それはまだ未完成の風の叙事詩。
だがその旋律には、たしかに祈りがあった。
「どうか、まだ終わらないで」
誰にも届かなくてもいい。
けれど、この界の奥深く、彼の揺れ動く魂にだけは──
その微かな音のかけらが、届くことを願って。
あやのは、泣かなかった。
その代わりに、音が泣いていた。
彼女のかわりに、龍界の風が静かに涙を流していた。




