第八十一章 王の眠れぬ夜
──深夜。
龍仙洞の最奥、玉座の間。
そこに、王の姿はなかった。
月麗は、外殿の回廊にひとり、座っていた。
風が、龍鱗の羽織をかすめてゆく。
だが、それを感じる感覚さえ、いまは遠かった。
掌には、あやのの手の温もりが残っていた。
触れたのはほんの一瞬。
だが、その一瞬が、すべての感覚を侵食している。
「……ぼくは、王であるべきだったのに」
月麗は、つぶやく。
その声は風の中に溶け、誰にも届かない。
君を見てしまったとき──
いや、君を“視てしまった”とき、すでに何かが壊れ始めていたのかもしれない。
あの星眼の奥に揺れる、底知れない静寂と、祈りのような意志。
誰かを拒まず、誰のものにもならず、ただ“在る”ことを選び続けるその姿は、
どれほどの神をも魅了し、同時に打ち砕く。
王である自分は、それに抗うべきだった。
君を導き、守り、育み、遠くから見守るだけでよかったはずだった。
だが──
「君が『名を呼ばせないで』と言ったとき、なぜ、あんなに嬉しかった?」
それは、王としての自制が報われたのではない。
ただ、君が“まだどこにも行っていない”と知れたからだ。
それは王の願いではない。
ただの、ひとりの恋する男──月麗の独占欲だった。
「……なら、王はどこにいる?」
夜の帳に問いかけるように、月麗は自問した。
玉座の重みを支え続けて千年、神託を受け、秩序を守り、世界の揺らぎを調える“要”であった自分。
だが今や、王冠の影に隠れていた“月麗”が、あやのという存在を前にして、表へ、表へと顔を出そうとしている。
玉座に戻れなくなっている自分に、彼はふと気づく。
「……ああ、これはもう」
玉座を求める意志ではない。
君を見た夜から、この身は王であることを放棄し始めていたのかもしれない。
だが、捨てることはできない。
王としての義務、龍界という世界、幾多の民──
その重さは、恋ひとつで斬り捨てられるものではない。
だからこそ、苦しさが増してゆく。
玉座へ戻る道が、少しずつ霞んでいく。
君を想う心が、風を変え、気の流れを変え、
この界そのものに小さな“ゆらぎ”を生んでしまっているのを、自覚してしまう。
「君を愛した王は──まだ、王でいられるのだろうか」
夜明けは近い。
けれど、月麗は今夜、眠ることができなかった。
その瞳の奥では、もうひとつの己──
王でも、男でもない、“ただの月麗”が静かに目を覚ましていた。
そしてそれは、あやのという少女を前に、
決して均衡を保てぬ“龍王の終わり”の兆しだった。




