第八十章 君を奪う覚悟と、奪えぬ矛盾
静けさが戻っていた。
白銀の鱗は、あやのの手の中で脈打つように輝きながらも、何も語らない。それが“答え”ではないと、本人も、そして相手も知っている。
鱗は契約ではなかった。
それは、矛盾のかたちをした贈り物だった。
──だからこそ、彼はもう一度、現れる。
「あやの」
声が落ちる。
あやのがゆっくりと振り返ると、そこには──
月麗としての姿をした龍王が、立っていた。
銀の髪を緩やかにまとめ、微笑の仮面を浮かべながら、けれどその目は、明らかに“王”のものではなかった。
「……あなたは」
あやのがそっと言葉を継ぐ。
「昨日と同じ顔なのに、まるで別人に見える」
「そうだね」
月麗──いや、“月麗としての龍王”は頷いた。
「ぼくは“王”として、君に鱗を与えた。そのときのぼくは、世界を見ていた。秩序と、責務と、未来を。けれど──いま、君の前に立っているぼくは、“月麗”だ。ただ、君に囚われた、ひとりの未熟な恋人だ」
あやのの目が、わずかに揺れる。
「……じゃあ、なぜ、昨日は黙ってたの」
「言えば、君は逃げただろう?」
その一言に、あやのは返す言葉を失った。
たしかに、そうかもしれなかった。
月麗は歩み寄る。
その足取りは静かで、まるで“龍”ではなく“風”のようだった。
「この千年、王であることに徹してきた。情を絶ち、個を捨て、名を持たぬ者を導いてきた。けれど、君に出会ってしまってから──ぼくは、月麗という名を、初めて“取り戻した”んだよ」
あやのは、そっと目を伏せた。
「……あなたの目が、昨日とは違う。まっすぐすぎて、傷つけるのが怖い」
「ぼくは怖くない」
月麗の声は、静かに重なった。
「たとえこの手が空を掴めなくても、君の影に届かなくても。ぼくは、君を見続ける。……それが王としてではなく、月麗という名を持つ者の、“恋”だ」
しばらく、沈黙が降りた。
あやのは、鱗を握りしめたまま、彼の前に立った。
「……今は、名前を呼べない。でも、“呼びたい”と、思ってしまっている自分がいるのは──もう否定できない」
その言葉に、月麗の目が細くなる。
「それで十分。君が、ぼくを忘れないのなら」
「……忘れないよ。ずっと」
そしてあやのは、微かに笑った。
「“誰にも染まらない”ようにしてきたあたしの中に、もう色がついてる。あなたの色が、確かに残ってる」
それは、拒絶ではなかった。
かといって受容でもない。
ただ──この瞬間だけは、二人が“同じ時を生きている”ことを確かめ合う時間だった。
月麗は、あやのの手にそっと触れた。
鱗が温かく輝く。
「……いつか、名を呼んで。月麗と。君の声で」
「うん、約束はしないけど。……覚えておく」
それだけ言って、あやのは静かに微笑んだ。
風が、龍界の奥へと吹き抜けていった。
たった今、この龍界の中で最も“ひと”らしい二人が交わした約束は、誰の記録にも残らない、ただのささやきだった。
けれどそれは、未来の鍵となる“音”のように、確かに二人の間に鳴っていた。




