第七十九章 その瞳に映る、三人の影
白銀の鱗は、まだあやのの掌のなかにあった。
淡く脈打つような光を放つそれを、両手で包み込むようにして、彼女はひとり石の縁に腰を下ろしていた。
龍王の声、彼のまなざし、そのすべてが強くて静かで……どこか、悲しい。
──名を呼ばないでください。
あの一言に、どれほどの意味があったのか、いまさらになって震えてくる。
誰のものにもなりたくないと願うのは、傲慢なのか。
誰かを傷つけるのは、逃げていることになるのか。
風が吹いた。
白く冷たい風だった。
この龍界に来てから、彼女は思考という名の牢の中に、静かに閉じ込められている。
ふと、まぶたを閉じる。
──浮かぶのは、あの二人の姿だった。
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「……あたしの助手が神様に口説かれたぁ? 冗談じゃないわよ、まったく」
思い出のなかで、司郎はきつく目を細めていた。
あの眼鏡越しの視線は、いつだってあやのの“選択”に対してまっすぐだった。
「いい? あたしはあんたの才能を信じてる。でもそれは、誰のものにもならずに生きていけるって信じてるからよ」
彼は自由を重んじる人だった。
干渉せず、けれど無関心でもない。
傷ついたときにだけ、何も言わず背中を貸してくれるような男だった。
──“そのままでいてほしい”という愛し方。
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一方で、梶原國護の眼差しはまるで異なっていた。
“君が泣いた夢を見た。気になって、起きた”
夢のように静かな声が、思い出の中で囁く。
彼はなにも言わない。
愛しているとも、奪いたいとも、口にしたことはなかった。
ただ、隣にいて、寒くないようにしてくれるだけだった。
夜にふいに布団をかけてくれるような、言葉のいらない優しさ。
──“あやのという日常”を守ろうとする、不器用な愛。
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そして──
「その寝不足が、ぼくのせいなら、ちょっとだけ嬉しいな」
龍王の目は、惑いもなくあやのを見ていた。
千年という時間の果てに、それでも何かを求めるまなざしだった。
あやのは、その視線に“愛”を見た。
でも同時に、それが“決断を迫る力”であることも感じていた。
与えられるのではない。
“差し出される”のだ、自分という存在ごと。
その重さに、言葉が出ない。
──“名を呼ばせてほしい”と願う王の孤独。
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「…………あたしは」
声にならない声が、唇にかかる。
司郎の自由、梶原の沈黙、龍王の欲──
そのどれもが、自分を映していた。
映してくれるからこそ、縛る力を持っていた。
あやのは顔を上げた。
龍界の空は、いつも少し蒼くて、少し遠い。
この鱗は、誰かの愛の証。
それを握りしめたまま、まだ名前を呼べずにいる自分は、きっと──
「……だれの目にも映ってしまう、生きものなんだな」
そう、あやのは思った。
まだ、答えは出せない。
でも、胸の奥には確かに芽吹きつつあるものがある。
その日、彼女は誰にも告げずに、鱗を衣の裏に縫い付けた。
まるで、まだ心が迷子のままであることを、誰にも見せたくなかったかのように。




