第七十八章 名を呼ばない約束
白銀の鱗が、あやのの手のひらに触れたとき。
それはまるで、水面にひとしずくを落とすような音もしなかった。
ただ、心の奥に波紋だけを残して、静かにそこへ沈んでいった。
「……受け取ります」
声に出した自分の言葉が、自分のものではないように思えた。
けれど、その言葉を覆すことはしなかった。
それは「イエス」ではなかったが、「ノー」でもなかった。
まだ答えが出せないからこそ、受け取る責任だけは引き受けた。
龍王はそれ以上何も言わなかった。
あやのの手に鱗が収まるのを見届けると、そのまま彼女に背を向け、ゆるやかに奥へと歩き出した。
「……あの」
思わず、声が出た。
龍王の歩みが止まる。
けれど振り返らない。
あやのは一歩だけ、彼の背に向かって踏み出す。
「名前を……まだ、呼ばせないでください」
その言葉に、彼の肩が、ふっとゆれる。
あやのの胸の奥には、まだ整理できない想いがあった。
月麗の言葉。
梶原の不器用な愛。
司郎の揺るぎない庇護。
そしてこの、風を抱いた王の瞳──
彼らの誰もが、あやのを「ひとりの存在」として見ていた。何かに縛られず、ただ、あやのという個として。
だからこそ、安易に応えることができなかった。
誰のものにもならずにいられる自分を、まだ手放したくなかった。
あるいは、誰かのものになってしまえば、今の自由と響きが歪むのではと、どこかで恐れていた。
「わかった」
龍王は小さく、笑ったような声で応えた。
「君が、名を呼ぶそのときまで。ぼくは、ただの風に戻るよ」
その背に、朝の光が重なる。
広がる鱗の端が、きらりと光を跳ね返して、まるで白銀の翼のように揺れた。
あやのは拳を握り、掌の中の鱗を感じた。
そこに宿るのは加護か、束縛か、それとも──約束か。
「……あたしは、記録者です。誰のものでもなく、この世界のすべての証人でありたい。けれど……いつか、名前を呼びたくなったら──そのときは、ちゃんと目を見て言います」
朝の空に、やわらかい風が吹いた。
その風はどこか、くすぐったいような、優しいぬくもりを運んできた。
まだ答えは出せない。
でも、ここに生きている証を、ひとつ、刻んだ朝だった。




