第七十七章 王の手から、ひとつだけ
「……ねえ、あやの」
しばらくの沈黙のあと、龍王がふたたび口を開いた。
その声音は、先ほどまでの軽やかなものとは違っていた。
真っすぐにあやのを見つめるその瞳には、迷いがなかった。
いや、迷いがあったのかもしれない。
けれどそれすら、きっと覚悟という名の器に沈めていた。
「きみに、ひとつ贈り物をしよう」
あやのが少しだけ目を見開く。
「贈り物……ですか?」
龍王は立ち上がり、その背にひるがえる鱗の光を少し揺らした。
人の姿のまま、手を差し出す。
その掌の上には、小さな鱗があった──
白銀に近い、かすかに光を孕んだ、龍の鱗。
「これは、ぼく自身の“断片”だ。龍王として在る限り、めったに渡すことはない。
けれど、君が弾いた昨日の歌──それはもう、音楽じゃなかった。祈りだった。ぼくの、過去のすべてを癒すような祈りだったよ」
その手のひらを、あやのの方へそっと差し出す。
「この鱗を持つ者には、龍界の深奥に入る資格が与えられる。ぼくらがまだ語らずにいる“記憶の底”へ行ける。ただし──」
龍王はふと、声を落とす。
「それを持つということは、“ぼくの加護”に入るという意味でもある。どんな王族でも手出しができない。
それを、どう受け取るかは……君の自由だ」
あやのは言葉を失っていた。
その鱗が持つ意味も、龍王の真意も、ひとつひとつ胸の内に沈んでいく。
「そして、もうひとつだけ……」
と、彼は息を吸った。
あやのが顔を上げるより早く、言葉が、まるで刃のように切り出される。
「……君に惹かれている。あの瞳に、あの声に、君という“なにか”に」
あやのの星眼がわずかに揺れた。
だが、龍王は逸らさなかった。
「ぼくは、星眼のことも魅了眼のことも知ってる。それでも、これは自分の意志だ。君が“誰かのもの”になるのを、黙って見ていられるほど……ぼくはもう、聖人じゃない」
その告白は、王のものではなかった。
ひとりの孤独な存在が、たった一度、自分を投げ出して向き合うような、そんな重さだった。
「……どうか、持っていてくれ。その鱗を。すぐに答えをくれとは言わない。けれど、君の隣に並ぶために必要なものなら、全部捨てる覚悟はある」
──あやのの手に、そっと鱗が落とされた。
それは軽く、けれどあまりにも重い、たったひとつの贈り物だった。




