第七十六章 眠れぬ夜の果てに
朝の光は、龍仙洞の奥にも静かに差し込んでいた。
薬研や秤の影が、まだ眠る洞の気配をなぞるように、長く伸びていた。
あやのは、ひとりその奥の間へと向かっていた。
昨夜の歌の余韻が、まだ胸に残っている。
それは月麗の言葉よりも、もっと静かで、もっと深いところで響いていた。
戸口に立ったそのとき、不意に声が降りた。
「目が赤いね」
あやのは顔を上げた。
そこには、ゆるやかに身を横たえた龍王がいた。
龍の姿ではなく、人の姿でもなく──
その中間のような、時間さえ忘れさせる気配を纏って。
「眠れなかった?」
あやのは思わず、指で目元をそっと押さえた。
鏡を見ていなかったが、たしかに、あまり眠れなかった。
「……はい、少しだけ」
龍王はふっと目を細めた。
まるで、それを見越していたような、やさしい光を宿して。
「でも、少し嬉しいんだ」
その声音に、あやのはふと息を呑んだ。
軽やかに告げたその言葉は、あまりにも予想外だったから。
「……え?」
「その寝不足の原因が、ぼくのせいなら──ね」
それは冗談のようでいて、冗談ではなかった。
彼の声には、かすかな熱があった。
千年の王が持つとは思えぬほど、繊細で、ひとのような。
あやのはその場に立ったまま、何も返せなかった。
けれど、頬がふと熱を帯びたのを自覚していた。
「昨日の歌……風の中に、いろんな感情があった。誇りも、寂しさも、そして……誰かを救いたいという祈りも」
龍王はゆるやかに身を起こし、目を合わせた。
「君は本当に“記録者”なんだね。音で書き記す、世界のかけらを」
その眼差しには、かつての悲しみがほとんどなかった。
あるのは、どこか若々しい尊敬と──ほんの少しの、期待。
「……私は、ただ風を拾って弾いただけです」
あやのの答えに、龍王は微笑む。
「うん。だからいいんだ」
朝の光が、ふたりの間にゆっくりと満ちていった。
その光の中で、あやのは初めて、龍王が「王」である前に「ひと」であることを理解した。
彼の孤独も、彼の笑顔も、記録していかねばならないと思った。
──この人の歌は、まだ終わっていない。




