第七十五章 その背に、風は吹いて
月麗の背が遠ざかっていった扉を、あやのはしばらく見つめていた。
幸が彼の影を追うように、廊下の奥へ向かって低く鼻を鳴らしたあと、戻ってくる。
その黒い護衛犬は、主に問いかけるように瞳を向けた。
けれどあやのは何も言わず、黙ってその頭を撫でた。
「……ありがとう、でも、今はいいの」
幸はそれを理解するように鼻をすり寄せ、やがて静かに足元に伏せた。
部屋の中には、月麗の熱がまだ残っていた。
それは、言葉ではなく“衝動”として──
音ではなく、波として──
心のどこかに残響のように染みていた。
“その犬に噛まれたっていい”
“君を奪ってしまいたい”
真木あやのは、恋というものを、未だによく知らなかった。
けれど、いまの月麗の言葉が、ただの幻想や星眼の作用ではないと、直感で分かった。
彼は知っていた。
星眼の“魅了眼”が、人の本質を浮かび上がらせてしまうこと。
それでもあの瞳に“映りたい”と願ってしまう苦しさを──
それを理解した上で、それでも、恋してしまったのだと。
あやのの胸の奥に、小さな棘が刺さっていた。
その棘は痛みではなく、悲しみに近かった。
誰かに、あんなふうに告げられること。
誰かに、あそこまで言わせてしまう自分。
──あたしは、何を見せてしまったんだろう。
手のひらを見る。
そこに、何もない。けれど、何かを抱いているような感覚。
風の叙事詩の余韻が、まだ指先に残っていた。
あの歌は、龍王のために捧げたものだった。
けれど月麗は、その音にすら、あやの自身を見たのだろう。
愛しさと切なさと、憧憬。
すべてをひとまとめにしたような夜だった。
──そして、返せなかった。
窓の外に、夜明け前の鈍い光が差し始めていた。
鳥がひと声、遠くで鳴く。
あやのは再びリュートを手にとった。
そして、音を鳴らさず、ただ弦に触れながら、目を閉じた。
胸の奥で、なにかがやわらかく沈んでいった。




