夜想: 「奪うなら、いま」
風の叙事詩が終わった夜、
龍仙洞の離れには、静かな灯がともっていた。
あやのはまだリュートを膝に、うつむいたまま動かずにいた。
風に染まった旋律が胸の奥でくすぶっている。
──この歌は、誰のためだったのか。
答えが出ないまま、扉を叩く音がした。
「……ユエリー?」
開かれた障子の向こうに立っていたのは、
夜風をそのまま纏ったような、月麗の姿だった。
彼の瞳が、何かを決意したように揺れていた。
口を開けば、崩れてしまいそうなほどに、強く結ばれた唇。
「あやの」
ただ、その名前だけが、まるで言葉すべてを飲み込むような熱をもって響いた。
しばしの沈黙。
あやのが、そっとリュートを横に置き立ち上がる。
「どうしたの……そんな顔して」
問いかけた声は柔らかいが、どこか警戒も混じっていた。
月麗はそれに気づいて、微かに笑った。
笑ったというより、嘲ったように自分を責めるように。
「……その犬に、噛まれたっていい。傷を負って、嫌われたっていい」
あやのの瞳が、大きく見開かれる。
「いま……君を奪ってしまいたいんだ」
彼の声はかすれていた。
けれど、そこには隠しきれない本音が、溢れていた。
その目には、恋情があった。
抑えきれない熱が、あやのの星眼を射抜こうとしていた。
月麗はその瞳に魅了されていると知りながら、それでも“自分の意志”として、そこに立っていた。
「君の目が、僕を惑わせてるんだって、分かってる。分かってるのに……こんなにも、君が欲しい」
両性具有として生きてきた月麗が、はじめて“男”として、誰かを求めた夜だった。
「僕の名前は、もう君には要らないだろう? それでも、ただ──僕でいたいと思ってしまう」
風が揺れる。
あやのの髪を、そっと撫でるように。
沈黙の中で、彼女はゆっくりとその視線を受け止めていた。
驚きも、戸惑いもあった。けれど、逃げなかった。
「ユエリー……」
言葉を選ぶように、唇が形を結ぶ。
その一言の前に、月麗は目を閉じた。
「答えは……いまじゃなくていい」
彼は背を向けた。
恋情は抑えきれなかった。
けれど、奪うには、あまりにもその瞳が綺麗すぎた。
あやのが呼び止めることはなかった。
ただ、彼の背中を風が押していた。
犬の気配が、廊下の奥で低く唸っていた。




