第三十八章 “共鳴”のための準備
旧・蔵前コンサートホールの再生計画は、地域の注目を集め始めていた。
区役所からの協力が本格的に入り、新聞にも小さく取り上げられた。
「戦後の迷宮、ふたたび音を宿す──旧・蔵前ホール再生計画」
見出しの横には、あやのが作った模型の写真が載っていた。
旧蔵前コンサートホールの修復工事は、最終段階を迎えていた。
重厚な石造りのファサードには補強が施され、扉や窓枠はかつての意匠を活かしながら静かに蘇った。
通りすがりの人々が足を止め、かつての名残を語る声がちらほらと聞こえる。
老婦人がぽつりと、「あそこは、音が魂に届いたのよ」と呟いたのを、あやのは耳にした。
建物の内部では、回廊の天井に設置された音響板の角度調整が行われていた。
それぞれの板には、音を集め、返すための独自の彫刻と反響面が施されており、まるで楽器のように繊細な調律が必要だった。
梶原國護はリフトに乗って一つ一つを点検している。
黙々と作業するその姿は、まるで“音の回路”を守る番人のようだった。
「……梶くん、少し休まないと目が焼けるよ」
あやのが床下から声をかけると、彼は無言のまま一度だけうなずいて、リフトを下ろす。
床に腰を下ろすと、あやのが差し出したペットボトルの麦茶を一口飲み、ぽつりと呟いた。
「ここ、好きだ」
短い言葉だったが、確かな温度があった。
数日後の仮リハーサル。
あやのは、旧蔵前ホールの中央に置かれたピアノに座っていた。
楽器の調整を行い、実際の響きを確かめるのがこの日の目的だった。
扉の向こうから、杖をついた老紳士が入ってくる。
それは東堂教授だった。
かつてこのホールで幾度も演奏会を主催し、最後の閉館にも立ち会った人物。
教授はゆっくりとホールを見回し、模型と見比べるように目を細めた。
「……ずいぶん、静かな空間になったな」
そう呟いたあと、しばらく沈黙が流れた。
だが、瞳の奥には確かな満足が見えた。
「“共鳴の回廊”、という名が、こんなにも的確に響くとは思わなかった。
いい仕事をしたな、君たち……いや、君がか」
教授はあやのをまっすぐに見て言った。
「“音のない時間”に、意味を与えた。これは建築でも音楽でもない、“祈り”だ。
私は……こんな空間が、もう一度現れる日が来るとは思っていなかったよ」
その言葉に、あやのは軽く頭を下げた。
「建築の皮を被った、音の器を目指しました。
でも、“彼女”の祈りがなければ、ここまで来られなかった」
教授は目を閉じて、小さくうなずいた。
「音が戻ってくる。人が、それを聴きに来る。
——この街にまた、心が通る」
その夜、ビルに戻ったあやのは、窓から星のない東京の空を見上げて思った。
——届けたい。
ただ、誰かの胸に、音が優しく染み渡るように。