第七十四章 名をなくして、なお
月麗は、魔界から届いた親書をじっと見つめていた。
白磁のような指が、書簡の端を静かに撫でる。
そこには、父と、そして夫の名が、連ねられていた。
──重石のような、連名。
それは魔界の正統たる血の呼び声であり、
花咲く夢の終わりを告げる鐘の音だった。
「戻れ」と言っていた。
「遊びは終わり」と、そう書かれていた。
あやのとの、あの息もかけぬ時間すら、夢と見なされていた。
けれど。
いまの彼は、かつてのように両性の揺らぎの中にいない。
あやのに向ける眼差しは、否応なく“男”としてのものだった。
それが、あの瞳──
星眼のもうひとつの側面、「魅了眼」のせいだと、分かってはいる。
あの子の持つ、無意識の魔性。
ひとたび視線を交わせば、心の奥底にまでふれてくる、異能。
それでも。
惹かれてしまった。
真木あやのの声に、仕草に、笑みに。
そしてその背に抱く、ただでは済まぬ孤独の影に。
「……僕はもう、あの子の隣にいられる器じゃない」
呟いた声は低く、自嘲の響きを帯びていた。
魔界に戻れば、元の名前が呼ばれる。
政の場に戻れば、“男でも女でもない者”としての役目が待っている。
けれどあの子の前では、ただ一人の男でありたかった。
あの眼に映る自分が、名前を奪われてもなお、誰かであれたら。
月麗は親書を閉じ、指先で封蝋を弾いた。
柔らかく落ちた蝋のかけらが、机の上で転がる。
それは、断たれた夢のかけらか、それとも──
「ねえ、あやの。君は……僕のことを、どう見てる?」
言葉は誰にも届かない。
ただ、胸の奥だけが静かに軋んだ。




