第七十三章 眠れる時の獣
龍仙洞の地下、沈香の間のさらに奥。
霊薬の煙が消えない地層の裂け目。
そこに、誰にも記録されていない“空白の部屋”があった。
地図にも残らぬその空間で──焔刃は、ゆっくりと身を起こす。
――何者だ。
その声に、応えるように、地の底が柔らかく震えた。
そして。
「……焔刃よ、久しいな」
黒と白の影が交わるその場に、
まるで“時間そのもの”をまとったような、獣が姿を現した。
「貴様……」
焔刃の金の眼が細められる。
現れたのは、一本の角を持つ、白銀の毛並みを持つ獣。
瞳は深い朱、足元の風すら沈黙するほどの圧を纏っている。
現れる度に姿形を変え人の記憶に残らぬ存在。
「時神か──まだ生きておったとはな」
「……こちらのセリフじゃ、青二才め」
獣は、鼻を鳴らして笑う。
「いまでは“お正月様”などと呼ばれとるが、名などどうでもよい。うちの娘が、そちらに来たこと……感じたぞ」
焔刃は、薄く瞼を伏せる。
「“あの娘”か。……貴様の娘であることなど、初耳だがな」
「ふん、名前は与えん。だがあの子は、我が“残した時”を背負って生まれた子じゃ。貴様が印を与えたと聞いて、顔を見にきたわ」
焔刃は、尾をとぐろに巻きながら、嘲るように応じた。
「古の気配がすると思ったら、貴様だったか。随分と長く、眠っていたようだな」
「眠っておらねば、この世の変化に耐えられぬ。我ら古き者にとって、時の流れは毒に等しいからの」
「……あやつを“記録者”として見ているのか?」
「うむ。だがそれだけではない。あの子は“書き記す者”であり、同時に“時を刻む者”でもある。星眼に、我の“残した時”が響いたのだ」
焔刃の瞳に、わずかな驚きが灯る。
「……それはつまり、貴様の“後継”ということか?」
「違う。彼女は“誰の後継”でもない。ただ、“あるがまま”にあれ──と願っただけよ」
「役目を増やすな、焔刃。可哀想に……あの子はまだ、“自分が背負ってるもの”を知らんのじゃ」
「それは我が決めることではない。あの娘が自ら求めてきた、“記憶”の奥に、我が記録は眠っていた。それだけのことだ」
「だからこそ言う。選ばせよ。閉じ込めるな。囲うな。王に愛され、記録に縛られ、己を見失えば……“時”そのものが乱れる」
焔刃は鼻を鳴らし、再び静かに横たわる。
「分かっているさ、獣神。……記録者は、常に“最後の証人”であり、“変化の導火”であると」
お正月様は、それだけを聞くと踵を返す。
「見守るだけでは届かんときもある。されど、手を出しすぎれば、選ぶ力を奪う」
その声はすでに、静かな風に紛れ、地の底に溶けていった。




