第七十二章 その声は届かずとも
古屋敷を改装した、魔界の臨時拠点。
その一角にある「記録室」では、いつも通り魔界文書の翻訳と編纂が続いていた。
梶原國護は、あやのの席の隣──
空のまま、整えられた椅子に一瞥をくれた。
「……また、手紙は来てねぇか」
「今朝、使い鳥が一羽だけ戻ってきたわよ」
声の主は、司郎正臣。
濃紺の作務衣姿で、記録紙を片手にふわりと登場した。
「けど、空っぽ。封も切られてなかったの。──つまり、“届かなかった”ってことねぇ」
梶原は黙ったまま、懐の手帳に何かを書き記す。
「なぁ、司郎さん。あやのの手紙、……なんか変だったと思わねぇか?」
「ほぉんと、それよ。言葉の端々が、“読まれてもいい”体になってた。あの子のくせにね。あたしには見抜けないよう、微妙に隠して書いてあったけど」
司郎は、指先で空をなぞるように言う。
「誰かの監視が入ってる。少なくとも“通信の自由”は既に制限されてるのねぇ」
「……連れ戻しますか」
「早いわよ、そーゆーとこだけ。でも……あたしもね、正直、準備は始めてるのよぉ」
司郎は、机の下から取り出した小さな設計箱を開く。
中には、折り畳み式の空間座標転移装置──魔界から“直接龍界へ接続可能”な、試作型ゲートの構図があった。
「この子が帰ってくる道を閉ざされたら、あたしたちが“こじ開ける”しかないわけ。で、そのためには、“いつでも迎えにいける道”を整えておかないとね」
梶原は、黙ってその図面を見つめる。
そして、ぽつりと漏らした。
「……まだ、帰ってこいとは言わねぇよ。でも、“帰りたい”と思ったときに、そこに道があるようにしておく。それが、俺たちにできることだろ」
「ふふっ、やっと“オトナ”の顔ねぇ。いいわ、その調子」
司郎は柔らかく笑いながら、もう一通、新しい手紙を取り出した。
それは、月麗宛ての親書。
龍界王族代表 源龍 月麗 殿
魔界にて記録保全に協力する者たちより、
真木あやの殿の近況に関し、記録者としての“独立性”が保たれているか、あらためて文書にて照会いたします。
既に一部の情報ルートにて、“王族による囲い込み”の指摘がある旨、
録されております。
回答如何により、我らは“記録者の引き戻し”も辞さず。それは政治ではなく、“記録の権利”のための行動であることを、どうぞご理解ください。
署名には──
「魔界・記録整備会」「記録設計士・司郎正臣」「監査補佐・梶原國護」の三名が並ぶ。
あやのには知らされないまま、
ひとつの手紙が、空の狭間を抜けて、龍界の高空へ放たれた。
それが届く頃、
月麗の心は、再び“迷いの風”に包まれることになる。
そして、あやのの物語は──
まだ誰にも知られぬ岐路へと、静かに近づいていた。




