第七十一章 龍の勘
あやのがリュートの手入れを終えたちょうどそのとき。
重く、静かな気配が、部屋の扉を押し開けた。
「……昨日、どこまで行ったの?」
月麗だった。
いつものような笑みはない。
穏やかな口調の奥に、明らかに沈んだ波があった。
「龍仙洞だよ。観察許可をくれたの、あなたでしょう?」
あやのは平静を装った。
だが、月麗の視線が明らかに“違っていた”。
「そこから、戻ってきた君の“風”が……違っていたんだ」
「まるで、“何かに触れた”匂いがした。それも、……とても古くて、強い、あの時代の……」
月麗の言葉がしぼむ。
焔刃──それは、王族すら口にすることを避ける存在。
彼がその気配を「勘で察した」という事実は、あまりに正確だった。
あやのは、それでも簡単には口を開かない。
「……ねえ、あの箱を預けてくれたの、あなたよね?“信じる”って言ったの、あなたでしょ?」
「信じてる。けど──」
「けど?」
「……それが、君を“どこかへ連れていってしまう”気がした」
月麗の手が、無意識にあやのの肩へ伸びる。
それは暴力でも命令でもなく、ただの“つなぎ止め”だった。
「僕は……知ってるんだ、記録者は“残すことで、前へ進んでしまう”って。過去に縛られる者よりも、ずっと、ずっと速く──」
その言葉に、あやのは驚いたように瞬きをする。
それは月麗の中にあった、
ただの“囲い込み”ではない、“追いつけぬ者”としての劣等感の告白だった。
「──私は、あなたに“追われたい”なんて思ってないよ」
「でも、置いていかれるのは、もっと怖い」
その言葉は、彼が初めて見せた弱音だった。
あやのはゆっくりと、懐から小さな銀の箱を取り出した。
それを月麗に見せる。
「焔刃から授かったもの。これは“記録者としての認証”──でも、開くかどうかは、私の意思に任されてる」
月麗は息を飲んだ。
“焔刃”という名をあやのの口から聞いた瞬間、まるで遠い炎が背中を焼いたようだった。
「……本当に、会ったんだね」
あやのは、頷いた。
「でも、すべてを話すつもりはないよ。だって、これは“記録”で、“物語”じゃないから。誰かに都合よく編集するためのものじゃない」
「……僕にとっても?」
「そう。あなたにも」
月麗は黙った。
その肩に乗る“王族としての威厳”は、もう意味をなさなかった。
「君が“前へ進む者”なら……僕は、まだ、そこに立ち尽くしてるだけだ」
「だったら、立ち止まってていいよ。風は、ちゃんと戻ってくるから」
あやのは微笑む。
その瞳の奥には、決して“置いていく”でも“拒む”でもない、ただひとつ──「見守る者」としてのあたたかさがあった。




