第七十章 時を超える鱗の声
それは、偶然ではなかった。
あやのは龍仙洞の自由観察中、幸と共に歩を進めていた。
──不意に、背後の風が止んだ。
まるで、この場所だけが時を忘れたように。
見上げると、そこには細く開かれた朱塗りの扉。
薬局の地下層、一般の学徒や調合師ですら立ち入りを禁じられた空間──
「……開いてる」
幸が警戒するように鼻を鳴らす。
けれどあやのは、銀の箱に触れながら、一歩踏み出した。
“必要なときに開く”──それが、扉でも同じならば。
そこは、洞窟のような静寂だった。
壁という壁には古代文字が浮かび、
棚には使われなくなった龍骨の秤、砕かれた星礫の薬瓶。
そして、その奥──巨大な水晶柱の下に、それはいた。
古龍・焔刃。
全身に黒と銀の鱗をまとい、尾は蛇のように幾重にもとぐろを巻いている。
その片眼は閉じられ、もう片方の金色の瞳だけが、静かにこちらを見ていた。
「人の娘か……いや、“記録の者”か」
その声は、口を開かずとも、胸の奥に響いた。
「記録者──ならば、書け。この世界に残された、“火の記憶”を。かつて我らが龍の始まりであった、大炎の時代の記憶を──」
焔刃は、あやのの星眼をひと目見ただけで、その本質を見抜いていた。
記録する者、忘れぬ者。
“見たものを残すために生まれた者”の力。
あやのは、恐れよりも──静かに、礼を取る。
「聞かせてください。あなたが見た“龍界の過去”を、そして……“未来への問い”を」
古龍の語りは、時の淵から湧きあがる火のようだった。
龍界がまだ龍だけの世界だった頃
龍たちは文字も薬も知らず、ただ力と命を競い合っていた時代
ある“記録者の血”をもつ人間が、最初に龍界に訪れたこと
その者が残した“記録の書”と“調和の知識”が、今の龍仙洞の礎になったこと
「だが……記録もまた、封じる力となる。思い出さぬことで成り立つ平和もある。王たちはそれを知っておる。ゆえに、記録者を恐れ、時に閉じ込め、愛そうとする」
その言葉に、あやのは胸を突かれる。
月麗の行動──“囲い込み”の意味が、また別の位相で浮かび上がる。
「君が“真の記録者”であらば、我が名と記憶を君の中に刻もう」
焔刃は尾を巻き、額をあやのの前に差し出す。
その中心に、小さな赤い鱗──「焔珠」が浮かんでいた。
あやのがそっと手を触れると、鱗はゆっくりと光を放ち、
彼女の掌に龍語の印として刻まれた。
それは、「真なる記録者」にだけ許される“記憶の認証”。
「語れ。いつか、誰かに。“忘れられた記録”は、世界を育てる種となる」
焔刃は再び眠りについた。
その瞳は閉じ、ただ“時を委ねるもの”としてそこに横たわっていた。
地上へ戻る階段の途中、あやのは小さくつぶやいた。
「……これを知ったら、月麗はどうするんだろう」
幸がしっぽを軽く振る。
小さな鼓動が、彼女の足元で確かに答えるようだった。
それでも、記録者は進む。
知ってしまったのなら、なおさら。




