第六十九章 鍵を持たない扉
風楼の朝は、静かに始まる。
朱塗りの天井を照らす陽の光が、床に揺れていた。
あやのは朝食後、龍仙洞の実地観察に出かける支度をしていた。
いつもなら、その行き先は事前に王族経由で届け出が必要。
“護衛”という名の監視がつくことも多い。
だが──
「今日は、同行はいらない。君ひとりで行っていい」
声をかけたのは、月麗だった。
いつの間にか風楼に現れ、廊下の柱に背を預けていた。
「……え?」
「許可も出した。今日の記録は、“自由観察”扱いにする。誰の許可も、誰の目も、必要ない」
あやのは戸惑いながら、彼の顔を見つめた。
「どういう、風の吹き回し?」
「風は……変わるものだろう? 君に教わった」
あやのの表情が、ゆっくりとほぐれる。
「じゃあ、これは──私への信頼ってことでいいの?」
「たぶん。……そういう類の“勇気”って、ちょっと痛いんだね」
月麗の声には、いつもの余裕がなかった。
それはむしろ、彼が本当に「自分の手を緩めた」証だった。
「これも、預けるよ」
そう言って、月麗は掌にひとつの小さな銀の箱を置いた。
文様が彫られた精緻な箱──だが、鍵穴がない。
「これは?」
「“白銀の鍵箱”。本来は、王族しか開けられない。でもこれは特別製。鍵がない。中に何が入っているかは、君が“必要だ”と思ったときだけ開けられる」
あやのはそっとそれを受け取った。
それは、まるで「選択」を託すかのような重みだった。
「いってらっしゃい。……君が今日、何を記録しても、僕は受け入れる。それが、王族のことでも、僕のことでも」
「……それ、後悔するかもよ?」
「うん、すると思う。でも、するよ。ちゃんと」
ふたりは少し笑った。
その笑顔は、過去の“護り”ではなく、
未来の“信頼”にほんの少し踏み出した者たちのものだった。
あやのは、幸を連れて龍仙洞へと向かった。
見張りの兵はおらず、道には誰もついてこない。
風が、自由だった。
ほんの少しだけだが。
銀の箱が、あやのの懐の中でかすかに音を立てた。
(“必要になったとき”か……)
まだ開けることはしない。
でもそれは、自分が「信じられている」ことの証だった。




