第六十八章 囲いの中で風を知る
夕暮れの風が、薬草の匂いを運んでいた。
あやのは、風楼の裏庭に一人、腰を下ろしていた。
リュートは傍らに置かれたまま、弾かれていない。
足元の幸が、風の動きに耳をぴくつかせていた。
「……来ると思った」
あやのがそう言ったとき、背後から月麗の気配がそっと近づいてきた。
「どうしてわかったの?」
「あなたの“風”は、もう覚えてるから」
月麗は笑わなかった。ただ、黙って彼女の隣に座った。
「今日、庁の記録庫を見せてもらったの」
「……ああ。君には、拒む理由がない」
「そこに、“白銀の子”のことが書いてあった。声を持たず、生きて、ある日……誰かを失って、声を得た」
月麗の目がゆっくりと、あやのに向けられる。
けれど、否定もしなければ、肯定もしない。
「ねえ。あなたは、“声”を得たことを後悔してる?」
「後悔……? それは、守れる力を持ったことに、という意味?」
「違う。失ってから得たってこと。得た声が、誰かの代償だったってこと」
沈黙が降る。
だが、それは冷たいものではなかった。
あやのの問いかけは、責めではなく、“共に知ろう”とする声だったから。
月麗は、ようやく口を開く。
「彼女は……翠雨は、僕に言葉を残した。
“あなたが、自分の声を見つけるなら、それは誰かのためにあって”って」
「それで、“誰かを守る力”に執着したのね」
「守れなかった。だから、それ以降のすべてに、“鍵”をかけたくなった」
あやのは小さく首を振った。
「でも、風には鍵はつけられない。……私は、あなたの“檻”に入るためにここに来たんじゃない」
月麗の瞳が揺れる。
それは、王のものではなく──失ったものを胸に抱え続ける少年の眼差しだった。
「それでも、君を守りたいと思ってしまう。それは、間違いなんだろうか」
「間違いじゃないよ。でも、“それだけ”じゃ、私は生きられない。私は、記録者なの。あなたの隣にいるんじゃなくて、あなたを見つめるためにここにいるの」
風が、ふたりの間をやさしく通り抜ける。
あやのは、ゆっくり立ち上がる。
「私はもう、逃げない。あなたがどれだけ過去に縛られていても、私はそれを知った上で言う。“今のあなた”を、ちゃんと見て、書き残したい」
「……怖くないの?」
「怖いよ。でもね、それでも、“風のなかに立つ”って、そういうことなんでしょう?」
月麗はそのとき、初めて──少しだけ微笑んだ。
「君が風の記録者でよかった。……本当に」
それからしばらく、ふたりは言葉を交わさなかった。
庭の小さな花が、風に揺れていた。
あやのは、ふとリュートに手を伸ばし、爪弾いた。
それは、翠雨の歌ではなかった。
今ここにいる、あやの自身の歌。
月麗はそれを聴きながら、まるで“過去”ではなく“現在”に生きている者のように、静かに目を閉じた。




