第六十七章 誰にも届かなかった風
庁の奥、立ち入りに特別許可が必要な記録庫。
「──記録者 真木あやの殿、通行を許可する」
蘇芳の推薦により、あやのはそこへの出入りを認められていた。
今、彼女が手にしているのは、かつて王族筆頭として記録を任されていた者の帳面。
そこには、“現王月麗”という名がまだ存在しない時代の記録があった。
ページをめくるごとに、目に見えぬ風が指先を撫でる。
「白銀の子」
「……白銀の鱗をもつ幼龍が、再び現れた。しかしその子は、生まれながらに“声”を持たなかった。声なき龍は、王候補から外されるのが慣例。ただ、彼の眼差しは異様に澄んでいた」
「学識を教えたが、彼は誰とも言葉を交わさなかった。ただ、一匹の雌龍にだけ、心を開いていた。
その名は“翠雨”。」
あやのの指先が止まる。
(……彼にも、大切な誰かがいたんだ)
「──龍界の内乱、薬源の奪い合いにて、翠雨は失われた。最後に彼女は、白銀の子の前で“音”を残した。
それは、深い悲しみと、わずかな微笑の歌だったという」
「白銀の子は、その日を境に変わった。
声を発した。言葉を持った。
そして、“力”に目覚めた。
王候補として再登録されたが、
その眼差しには、常に“何かを守ろうとする焦燥”が宿っていた」
「記録者としての見解だが、
彼の中には、愛という名を借りた【強迫】がある。
二度と、大切なものを失いたくないという、
過剰なまでの意志。
彼の治世が穏やかであるのは確かだが、
その穏やかさは“檻のように安定した世界”を生み出す可能性がある」
あやのは、ページを閉じることができなかった。
そこに記された数行は、まるで月麗の行動を鏡のように映し出していた。
その夜。
風楼の月明かりの部屋で、あやのはひとりリュートを爪弾いていた。
静かな旋律。
まるで、亡き翠雨への鎮魂歌のように。
幸が足元で寝息を立てるなか、あやのはそっと口を開く。
「あなたが、彼にとっての“翠雨”だったら──
どれだけ救われたかな。どれだけ、縛られただろう」
そして、そっと記録帳を開き、今日のページに記す。
記録者・真木あやの 記
白銀の子は、声を持たなかった。
大切なものを失って、声を得た。
彼の声は、“守りたい”と叫んでいる。
でも、“囚えたい”と叫んでもいる。
愛とは、風のように自由なもの。
けれど、彼は風に“鍵”をつけようとしている。
それは、かつて彼が風を失ったから。
私は──その風にならない。




