第三十七章 初めの音、最初の演奏者
「再オープンの際、一曲だけ、生の演奏を入れたいと思っているんだ」
そう言ったのは、打ち合わせの終盤。
東堂教授は、湯呑みに残ったほうじ茶を見下ろすようにして、話し出した。
「録音でも、映像でもなく、あの場所で、あの空間で──“音”を届けたい。たった一度きりでも、いい。共鳴の回廊に、最初の命を吹き込む“始まりの音”が必要なんだよ」
沈黙が流れた。
そして司郎が腕を組み直して低く言った。
「演奏者は決まってるの?」
東堂教授は、ゆっくりとあやのの方を見た。
「……君に、弾いてもらいたい」
あやのは目を見開いた。
そして、かすかに口を開こうとしたが、言葉にならなかった。
教授は続けた。
「この模型を見たとき、思ったんだ。“これは音楽家の手だ”って。建築としても、音響としても、美しい。だがそれ以上に……“ここに音を捧げたかった誰か”の想いがある。君の音で始めてほしい」
司郎がぼそりと呟く。
「……なに勝手に押しつけてんのよ、爺さん」
それに、梶原がすっと割り込んだ。
「ですが、理に適ってます。音響的に、設計した本人が奏でる音が一番、構造との相性が良いです」
「お前も加勢すんのかい」司郎が苦笑する。
あやのはまだ、何も言っていなかった。
ただ、自分の手を見つめていた。
かつて、育った妖怪の里で──誰に教わるでもなく、風の音や鳥の声を真似て育ててきた自分の音感。
あれが“音楽”になるとは思っていなかった。
でも、今……。
「……一曲だけ、なら」
あやのの声は小さかったが、芯があった。
「弾きます。その日、あの場所に、沈黙の代わりに、私の音を響かせます」
東堂教授は、頷いた。
「ありがとう。君の音が、ホールの記憶を溶かす」
その言葉が、不思議に、あやのの心を温めた。
その夜。
出るビルのテラスに、あやのはひとり腰掛けていた。
屋上に据えられた古びたアップライトピアノに手を置き、風の音にあわせてそっと指を動かす。
「音を、捧げる」
そう思うと、不思議と、こわくはなかった。