第六十一章 風を囲う楼
風楼の朝は、いつも静かだった。
朝霧が淡く流れ、外庭に咲く薬草の露が陽を照り返す。
だがその朝は、どこかが、決定的に違っていた。
いつもなら、庭の門扉は内外から自由に開けられた。
けれど今朝、それは内鍵がかけられていた。
あやのは不思議そうにそれを見つめ、幸がクゥンと鼻を鳴らすのを聞いた。
「……おかしいな。昨日までは……」
ちょうどそのとき、門の向こうから現れたのは、王宮の側仕えのひとり──金鈴だった。
細身の衣に身を包み、柔らかく微笑みながら言う。
「真木様、王よりお預かりしております。“風楼の安全強化”とのことです。これより、許可のない外出は控えていただきたく──」
「……安全強化?」
「はい。薬草泥棒が最近出没しているとか。それに、知の庁も最近ざわついておりますので……どうぞご安心を。必要な物資や書物、食材はすべて、こちらでご用意させていただきます」
まるで高級な離宮のように。
完璧な配慮と、惜しみない物資供給。
あやのは礼を述べながらも、心にじわりと広がる違和感を押し殺した。
その日から、風楼に届けられる書物は選別されたものになった。
知の庁に預けていた記録帳も、なぜか“整理の都合”と称して戻ってこない。
「あの……先週借りていた“龍族外交記録”、まだ……」
「申し訳ありません、現在王宮による保管中とのことでして……」
あやのは、それ以上は言わなかった。
けれど、胸の中に静かに立ち上る予感──
──“囲い”が始まっている。
月麗が風楼を訪れる頻度は増えていった。
毎日のように、花を、果実を、演奏用の糸を、最新の記録紙を。
「今日は、これを見てほしくて」
「明日は、この薬草の調合を一緒にやろう」
「君の好きな調律、また手伝わせてよ」
それは、あやのにとって幸福な時間にも感じられた。
だが同時に、“選ばれた空間に閉じ込められている”という感覚も、日に日に増していった。
一度だけ、あやのがふと口にした。
「……私、少し、知の庁に顔を出したいな。先週、読んでた論文の続きが気になって」
月麗は笑った。
その笑顔は、柔らかく、あまりにも自然で。
「君は、ここの方が似合うよ。あちらは、今ちょっと騒がしくて……また落ち着いたら、ね」
そして、彼は優しく言った。
「ここにいてくれるだけで、私は安心できる。……君が、遠くに行く夢を見たんだ。二度と戻らない夢」
あやのは、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「そんなこと、ないよ。私は──」
けれど、その言葉が本当かどうか、あやの自身が揺らいでいるのを、
彼女は誰よりも、感じていた。
その夜、あやのはリュートを抱き、窓辺でひとり爪弾いていた。
幸は彼女の膝の上で眠っていたが、時折耳だけをぴくぴく動かしている。
外の音が、聞こえない。
以前は聞こえた、街の調薬所の鐘の音も、庁の若者たちの笑い声も──
どこにもない。
風楼は、静寂に満ちていた。
「……これは、“音のない牢”だ」
初めてその言葉を、自分の中で認めてしまったとき、
あやのはそっと風帳を開き、震える指で記した。
王は、風を愛すると言う。
けれど今、私は“吹くこと”を許されていない。
それでも私は記す。
この風が、どこかの裂け目を通って、また誰かに届くことを信じて。
真木あやの、記録者。
吹かぬ風の、ただの観測者ではない。




