第六十章 沈黙の耳、風を聴く
「──これ、君のだね?」
それは、思いがけず穏やかな声だった。
けれど、その手に握られていた一枚の紙を見たとき、
あやのの心はひやりと冷える。
朝の陽が差し込む王宮の一室。
月麗は、まるで何でもないことのように、紙を指でくるくると弄んでいた。
あやのは、すぐにそれが自分の記録の一部であると分かった。
風帳に書いたものではない。
あくまで「草稿」として、まだ庁に提出していなかった断章のひとつ。
“王の愛が、声を閉じるとき──
風は、静かに外へ逃げていく”
まさしく、それは“王”への投げかけだった。
「どうして……それを?」
思わず洩れた声に、月麗は微笑んだ。
その笑みには、以前のような無邪気さはなかった。
「……偶然だよ。君の言葉を、誰かが写し取って、私に渡しただけ。王って、便利だね。何も言わなくても、全部届く」
優しい口調だった。
けれど、まるでガラスの表面を爪でこすられるような、薄く痛い音があった。
「ねぇ、あやの」
月麗は紙をそっと机に置くと、彼女の方に歩み寄る。
「君が風を記してるのは、よくわかってる。それは、君にしかできないことだとも思ってる」
「……うん」
「でも、それが“誰かを動かす”なら──
その風が、私じゃない誰かに吹いているなら──」
一瞬、月麗の声に火が灯った。
「……それは、私を否定することと、同じだよ」
あやのは、言葉を失った。
風の楼に戻った後も、あやのはその言葉を反芻していた。
君の風が、私以外に吹くなら、それは私を否定することと、同じだよ。
月麗は怒らなかった。
声を荒げず、手も触れなかった。
けれどその“静けさ”こそ、何より恐ろしかった。
幸が、あやのの膝に頭をのせてくる。
そのぬくもりが、かろうじて彼女の胸をつないでいた。
「……風を、誰か一人のために吹かせたら、もうそれは風じゃない。私は、ちゃんと、みんなの声を聴いて、書きたいのに……」
そうつぶやいたとき、不意に机の隅の共鳴石がかすかに光った。
司郎と梶原から送られてきた、小さな“声の石”。
ふっと、あやのは微笑む。
「そうだよね。あたしは記録者……“記録すること”は、王を否定することじゃない。むしろ、ちゃんと見るってことだもんね」
王宮では、月麗がその記録の紙をずっと握ったまま、
遠くを見つめていた。
「どうして……どうして、君は、私のそばで、そんなに遠いんだろう」
それは、愛の名を借りた、封じ込めの始まり。
そしてあやのは、すでにその風の中に、“逃げ道ではなく、通り道”を見出しつつあった。




