第五十九章 記す者の夜
風の楼に、夜の帳が下りるころ。
その日は、あやのにとって特別な日でも、何でもないはずだった。
ただ、薬理の実習で調合した青根花の香りが、まだ部屋に淡く残っていた。幸は彼女の足元で丸くなって眠り、火を落とした室内には、かすかにリュートの残響が漂っていた。
そんな時だった。
コツ、コツ──
木の床を軽く叩くような、柔らかい足音。
「……起きていましたか?」
そう言って現れたのは、蘇芳だった。
夜装束に身を包み、けれどどこか淡い光を帯びるその姿は、月明かりと見まがうほど静謐で、あやのは思わず微笑んでしまった。
「蘇芳さん。どうしたの?」
「あなたの“記録”が、一人歩きを始めました。……それを、知らせに来ました」
あやのは手を止める。
「……読んだ人がいたの?」
「ええ。“王の愛は、風を止める”──その一節が、知の庁の片隅で囁かれていました。あなたの名前は伏せられていましたが、“風の言葉を記す者”というあだ名がつきましたよ」
あやのは、息を詰めて、ふっと小さく笑った。
「……少し、怖いな。誰かに届いたって思うと、なんだか」
「それが、“記録者”です」
蘇芳は、窓辺の小さな椅子に腰を下ろすと、月明かりを見上げた。
その横顔には、どこか遠い記憶のような哀しみが浮かんでいた。
「“記録者”は、声を張る者ではありません。
ただ、見る。聴く。そして、綴る。それが、誰に知られようが、知られまいが……いつか、誰かに届くために記すのです」
「……私は、まだそこまで強くないよ。時々、月麗の言葉に引き寄せられそうになるし、この“風の楼”だって、とても居心地がよくて……怖いくらいに」
蘇芳は、ふと笑った。
「それでいいのです。あなたが“揺れながらでも立っている”ことが、今の龍界には、なにより強い。かつての記録者・ザイラ様も、そうやって生きてこられました」
あやのは目を細めた。
「ザイラさんも……?」
「はい。あの方も、王に傾いたことがありました。
けれど、それでも“記すこと”だけは、裏切らなかった。その姿勢が、時を超えて、あなたをここへ呼んだのかもしれませんね」
──記すことだけは、裏切らない。
その言葉が、あやのの胸の奥に、深く静かに落ちた。
蘇芳は、立ち上がると最後にこう言った。
「もう少ししたら、あなたの“風”は、王の衣をも揺らすでしょう。けれど恐れずに。あなたは、龍界に風を吹かせるために来たのですから」
「……ありがとう、蘇芳さん。“私の記録”が、誰かの風になるように……ちゃんと、書くね」
その夜、あやのは風帳に綴る。
私の記録が、誰かに届いた。
その人が、誰なのかはわからない。
でも、もしもその声が、小さくとも揺れたなら、
それだけで、私は今日の記録を続けられる。
書くことは、生きることに似ている。
息をして、確かめて、また次の言葉を探す。
私の名は、真木あやの。
私は、風の記録者。




