第五十七章 風の在り処
あの日から、数日が経った。
あやののもとに届いた、梶原からの手紙と、小さな共鳴石。
風返し──
歌に共鳴して、龍界の時空に抜け道を開く、ひとつの“帰路”。
それを知った夜、
あやのは窓辺で、ひとり静かにリュートを抱いた。
指先で共鳴子を軽く撫でると、かすかな波動が指先をくすぐる。
「……ありがとう。司郎さん、梶くん」
呟いた声は、夜の中に溶けた。
だが彼女は、リュートを弾かなかった。
逃げ道があることは、恐怖を薄めてくれた。
けれど、今のあやのが望むのは「去ること」ではなかった。
翌日。
あやのはひとり、蘇芳の案内で“知の庁”を訪れた。
そこは、龍界で蓄積されてきた膨大な知識──文献、記録、口承、予言、薬理──を扱う研究中枢。
月麗の息がかからぬ唯一の場所。
静謐な石の回廊と書架の中、あやのは足を止めた。
「……ここに、記す場所をください」
その一言に、蘇芳は目を細める。
「逃げないのですね。あやの様」
「うん。逃げることは簡単。でも、それじゃ風は変えられない。私は“ここで起きてること”を、ちゃんと記して、風にする。それが、私の役目だから」
その声には、迷いがなかった。
蘇芳は、書棚の奥から記録者の証たる帳面を差し出した。
それはかつて、龍界でもっとも中立な記録を残したとされる“風帳”の複写版。
あやのは、その表紙に手を置き、静かに誓った。
「私は、王にも、誰にも縛られず、風のままに記します。すべてを、ここに。善も、悪も、迷いも、愛も、全部」
夜。
風の楼。
あやのは窓を開け、風帳を机に広げ、最初の一行を書いた。
龍界に、風が止まりかけている。
王は、愛を間違えた。
民は、それを信じたまま、止まっている。
私は、ここで見たことを、書いてゆく。
これは、誰かのための告発ではない。
ただの、記録。
風を、残すための記録。
名前は、真木あやの。
そして、筆を置いた。
足元で眠っていた幸が、すっと顔をあげる。
「大丈夫。ちゃんと、見てて。
この風が、どこに吹いてくか──記していくから」
その瞳に宿る光は、あの記録者・ザイラの意思を受け継いだ者としての覚悟。
もう、誰の影にも隠れない。




