第五十六章 風の抜け道
深い霧が揺れる谷間、岩をくり抜いたような旧軍用の工房跡。
ここに今、司郎正臣と梶原國護は仮設の設計基地を構えていた。
魔界のインフラ整備を請け負う傍ら、ふたりは誰にも告げず、ひとつの“扉”をつくっていた。
「……あの子の声が、風みたいに弱くなってきてる。聞こえなくはないけど、まるで向こう側で凍えそうに震えてるのよ」
司郎がつぶやく。
手には、あやのから届いた便箋と、音の細かな波形を記した写し。
「あやのはな、絶対に“助けて”とは言わねえ。でも、誰より“手を伸ばされる場所”を探す人だ」
梶原の声は低い。
目の前の黒い金属板──魔界産の“闇導板”の縁に、彼は慎重に特殊刻印を刻んでいた。
司郎は頷き、傍らの石卓に魔力循環図と時空間の揺らぎを書き加える。
「この“風返し(かぜがえし)”があれば、あの子が一言“帰る”って思った瞬間、風の道が通るようにしてあるの。無理やり助けるんじゃなく、あの子が自分で選べるように」
「……司郎さん。あやのの選択、支えるのは俺たちだが、邪魔はしない。そういう約束だ」
「ええ。わかってるわよ。あたしだって“娘”扱いする気はない。──ただね、“声が戻ってこれる場所”くらい、用意しておいてあげたいのよ」
工房の中央には、黒曜石を磨き上げた楕円形の鏡板が静かに立てかけられている。
それはただの鏡ではない。
──魔界の風と、時空のひだを通す“風の座標装置”。
あやのがもし龍界で、「帰りたい」と願えば、その声だけを鍵として、魔界との結び目が開く。
「魔力共振は良好だ。あとはあやのがこの鏡を“自分の歌”で鳴らせば、一気に開く」
梶原が唸るように言った。
「……あの子、きっと迷ってる。王のことも、学びのことも、全部“好き”だからな。俺なら……心臓えぐられるくらい、しんどい」
「それでもあの子は、“風で生きる子”なの。どんなに惹かれても、風に触れなきゃ生きられない。あの月麗って子、優しいけど、“閉じる愛”をしてるのよ」
司郎の眼鏡の奥が、鋭く光った。
「だからあたしたちは、“開くための道”だけを渡してやるの。その子が閉じきる前に、ね」
その夜、梶原は魔界の筆と和紙を手に取り、あやの宛に短い手紙をしたためた。
あやのへ
お前の声は、まだちゃんと届いてる。けど、遠い。
無理に戻ってこいとは言わない。
でも、もしもお前が“今の自分がわからなくなった時”があったら、
ここに風が通るって、思い出せ。
それで十分だ。
梶原
手紙とともに、小さな細工石──風返しの“共鳴子”が同封された。
リュートの弦に掛ければ、あやのの音が座標を開くための“合図”になる。
この手紙と共鳴子は、信頼できる魔界の情報伝達者から、龍界の蘇芳へと密かに届けられた。
蘇芳は静かにそれを受け取り、文を開くと一言だけつぶやいた。
「……さすが。あやの様の人間界の“家族”というのは、本当に」
そして夜明け前、そっと風の楼の扉の前に、それを置いた。
──選ぶのは、あやの。
彼らはただ、風の道を開くだけだ。




