第三十六章 静寂の層、教授の記憶
出るビルの昼下がり。
共鳴の回廊とSilent Requiemの模型が、中央のテーブルに鎮座していた。
白い石膏と樹脂で形作られた螺旋と断面の組み合わせ──外観はシンプルだが、その中にある音響処理の精度、そして“記憶”の層は、見る者を惹きつけるものだった。
東堂教授がそれを覗き込んでいた。
彼は老眼鏡を鼻先にずらし、じっと中央の空間を見つめている。
無言だった。
あやのは、テーブルの向かいで手を膝に置いて座っていた。
梶原はキッチンに引っ込み、司郎はやや離れた壁際で腕を組んでいた。時計の秒針が音を立てるほどの沈黙。
「……ここに、音が落ちるのか」
教授がぽつりと呟いた。
「はい。最下層、かつて封じられていた“沈黙の間”を、あえて音の“反響の終着点”に組み込んでいます」
あやのの声は静かだった。
「つまり、消えた音の代わりに、すべての演奏がここで終わるのか」
「はい。曲の終わりが、沈黙と繋がる構造です」
東堂教授は目を細めた。
どこか遠くを見つめるような目だった。
「昔な、あそこに通っていた頃……何人かの学生が消えたんだ。いなくなったってわけじゃない。演奏をやめてしまった。音楽をやめた」
「……」
「理由は言わなかった。ただ、全員がこう言った。“あのホールには、自分の音が響かなかった”って」
それが、蔵前ホールが「音の迷宮」と呼ばれた理由の一つだった。
「お前さんたちは、沈黙の理由を掘った。その上で、新しい音を載せる。これは……建築じゃない。供養だな」
教授はゆっくりと顔を上げた。
「……でも、それでいい」
老建築家は静かに笑った。
「もう一度、あの場所に“音を聴きに”行く日が来るとは思わなかったよ。ありがとう」
そのとき、風が入ってきた。
東京の空が、少しだけ春の匂いを含んでいた。
誰かが、ピアノを弾きたくなるような、柔らかい空気だった。