第五十五章 風のひとひら、記される日
龍界・碧蓮の庭──
王族以外の者も出入りする、古くからの“学びと語り”の広場。
小高い丘の上、花々と風の通り道に囲まれたその場所に、今日限りの舞台が設えられていた。
「記録者 真木あやの 公開対話・演奏会」
この告知は、知の双鱗、蘇芳の協力によって拡散され、短い期間にも関わらず多くの龍界民が集まっていた。もちろん、王族側の者たちも、静かにその動向を見守っている。
あやのは、静かに登壇した。
風の楼から持ち出した、細身のリュートを抱えて。
衣は飾らず、表情も控えめ。
だが、その背筋には一点の曇りもなかった。
まず、語ったのは日々の観察記録。
香の変化、風の色、薬草の繁殖周期──それらを、あくまで「自分の目で見たもの」として伝える。
誰の脚本でもなく、誰の期待にも縛られず、「記録とは、風に触れることであり、風を閉じ込めぬこと」と、静かに口にしたその姿は、龍界の民にとって衝撃だった。
それは、王が恐れていたもの──
彼女が“個人”として立ち上がることだった。
語りのあと、リュートの弦が鳴る。
ひとつ、ふたつ……やがて、流れるように音が風に乗って広がってゆく。
誰も言葉を発さず、誰もがその音に身を傾けた。
それは、名もなき“恋”への返歌だった。
──あのひとよ
優しき手に、私はいっとき守られた
けれど、風は手の中にとどまらぬ
誰かのために咲いた歌を
今は、わたしの声で編み直す
──愛されたことを否定しない
でも、それは同時に檻だった
見つめてくれた瞳を忘れない
だから、今は
自分の影を、風に刻む
その旋律は、まるでひとつの決別であり、ひとつの再会のようだった。
聴く者は誰もが、それが月麗に向けられた歌であると気づいた。
けれどそれは告発ではなく、やさしい“さよなら”でも、“もう一度歩み寄るため”の風だった。
月麗は遠く、木陰の奥からその光景を見ていた。
周囲の者たちは、彼の表情を読み取れなかった。
ただ、唇が一瞬だけ震え、手にしていた手袋をぎゅっと握りしめたのを、側仕えのひとりだけが見ていた。
「……君は、もう、私の手を離れたんだね」
その呟きは、誰にも届かなかった。
あやのは歌い終えると、深く礼をした。
広場には、静かな拍手が広がっていた。
称賛ではない。
理解でもない。
ただ、「受け取った」という合図。
あやのは今、記録者として“風の中心”に立った。
王の傘の下ではなく、自らの声と手で──
幸が足元に寄り添い、ふわりと鼻先をあげる。
風が、今度こそ自由に吹いていた。




