第五十二章 封ぜられた風の底にて
風の楼の夜。
月は雲の端にあり、まるで何かの幕が降りようとしているかのようだった。
あやのは外套を羽織り、そっと扉を開けた。
幸が音もなくついてくる。
一度だけこちらを見たその目は、「わかってる」とでも言いたげだった。
──向かう先は、庁舎の裏庭。
誰も立ち入らない、草に埋もれた書庫の影。
(風が……動いている)
重ねた日々のなかで、いつからか呼吸すら“他人の設計”になっていた。
蘇芳の言葉、あの一節、そして小さな紙片が胸の奥で燻っていた。
その煙を、今夜──確かめに行く。
そこにいたのは、五人の者たち。
龍の姿のまま、瞳だけが知性の火を灯している老体。
人の姿をとりつつ、まるで呼吸さえ本のように静かな者。
そして、半龍の姿で紅の装束をまとった者──以前、短く言葉を交わした文官もいた。
彼らは、焚き火を囲むように座っていた。
「……ようこそ、真木あやの殿。
あなたが、ここまで“耳を澄ませて”くれたことに、まずは礼を」
白髪の老女が、深く一礼した。
その声は、決して頭を下げる立場ではないはずなのに、あまりにも自然だった。
「……どうして、わたしに?」
「あの方──月麗殿は、心からあなたを慈しんでおられる。ですが、それと“自由の保護”は別の話です」
別の老龍が言った。
「あなたの記録は、美しい。ですがそれは、龍界の歴史を──あの方ひとりの光で染めあげかねない。記録とは、風であり、影でもある。偏りなく、在るべきものなのです」
静かな対話だった。誰も声を荒らげない。
けれどあやのは、じわじわと体の奥が熱くなるのを感じていた。
「……わたしは、あの人に助けられたんです。最初にこの世界を見せてくれたのも、こうして多くを学ぶ場を与えてくれたのも……全部、月麗さんです」
「それを、誰も否定していません」
「でも……」
焚き火がぱちん、と弾けた。
「──でも、わたし、“自分のために歌う”ことを、忘れそうになってたんです」
声が、震えていた。
それは怒りではなく、恐れでもない。
ただ、ひとつずつ、何かを取り戻そうとする過程の中にある「痛み」だった。
紅衣の文官が一冊の古文書をあやのに渡す。
「これは、あなたが龍仙洞で初めて薬草に触れた日。その日付と同じ頃に、いくつかの王命が“裏で動いた”記録です。どれも、あなただけが特別に扱われるよう設計されていた」
「……特別扱い、ではなくて、護ってくれてたんじゃ……」
「ええ、最初はそうだったでしょう。
けれど、いつのまにか“他の風”が入らないよう、閉じてしまった。あなたの部屋に、本はありますか?」
「……はい」
「でも、“自分で選んだ本”は?」
あやのは答えられなかった。
「真木あやの。
私たちはあなたに反旗を翻してほしいのではありません。ただ、自分の記録を、自分の手で綴る場を守ってほしい。それはあなたのためであり、龍界の未来のためでもあるのです」
風が、焚き火を揺らした。
その炎の中に、あやのは、どこか懐かしい“自分の歌”のかけらを見た気がした。
「……少しだけ、時間をください。きっと、ちゃんと……答えます」
そう言って頭を下げたとき、幸が一歩前に出て、彼らをじっと見つめた。
老龍のひとりが微笑む。
「良い犬だ。真実に目を持つ」




