第五十一章 知の双鱗たち
龍界・翡翠の庁舎。
かつて龍界の法と学問を司った文官たちの会議所であり、今はほとんどが使われていない、忘れられた区画。
そこに、三人の影が集っていた。
皆、年老いた姿に変化しているが──その目は鋭い。
かつて王朝の学を支えた老龍たち。
今は“遠ざけられた者たち”と呼ばれる。
その中のひとり、白眉と呼ばれる老龍が低く言った。
「月麗殿が“記録者”を取り込んだ、という話は真か」
「まこと。風の楼に、あの娘を住まわせておる。薬学に加え、両性生理学──果ては龍仙洞の秘伝まで、触れさせておる」
「……危ういな。あの方は情に溺れることはなかったはずだ」
「“愛”を学ばれたのだ、俗世にて。──かの娘の、柔らかな光を以て」
重々しい沈黙。
やがて、長身の半龍が口を開く。
彼は紅衣の学者で、元は龍界法典の記録官だった。
「記録者の意思が曇れば、龍界の未来もまた曇る。“風”の自由が脅かされてはならぬ。──我ら、動くべき時ではないか」
その夜。あやのはふと、風の楼の小窓の隙間に、“一枚の薄絹”が差し込まれているのに気づいた。
そこには──見知らぬ筆致で、静かにこう記されていた。
風を、貴女のものとして在らしめよ
──知の双鱗より
あやのは言葉を失った。
この紙は、龍界においてもっとも古い“自由の思想”を掲げる学派──双鱗の者たちが用いる文体だった。
それを受け取っただけでも、王への反逆を意味しかねない。
だがその瞬間、彼女の中で、ひとつの音が鳴った。
(……私、知らないうちに、檻にいたのかもしれない)
授業の後、見知らぬ文官の男が、そっと近づいてきた。
その身なりは侍従と変わらず、気配を限界まで消している。
「真木殿。もし、風を“他のかたち”で記録したくなったら、いつでも“庁舎の裏庭”に」
そう言って、すっと消えるように去った。
幸が吠えなかった。
それは、彼が敵意のない者である証だった。
その夜。あやのは、風の楼の楽器室でひとり、リュートを抱いていた。
歌えなかった。けれど、指が勝手に旋律を編み始めた。
──そこには、外の空気があった。
重くない、縛られていない、どこか懐かしい風。
「“風を、私のものとして”……」
呟いたその声は、微かに震えていた。
月麗の微笑み、優しさ、すべてが嘘だとは思わない。
でも──彼の存在は、もう“自由”ではなくなっていた。
そのとき、幸が低く唸った。
扉の外に、気配がある。
(……また、月麗?)
その予感は当たっていた。
月麗は──微笑をたたえたまま、すでにそこにいた。
「君が、僕の手の届かないところに行こうとするなら……」
あやのの背筋に、初めて“恐れ”に似たものが走った。




