第四十九章 金の鳥籠に立つ影
龍界。日暮れ。
染み出すような紅蓮の光が、天の端から朱塗りの門を照らしていた。
「龍仙洞」と刻まれた金の文字は、まるで熱を帯びるように輝き、
蘇芳は、ゆっくりとその前に立ち止まった。
(懐かしい……でも、こんなにも“重かった”か?)
彼が龍界を出たのは、まだ少年だったころ。
だからこそ、記憶のなかの龍界は、もっと澄んで、風の通る場所だった。
今、彼の頬を撫でた風は……どこか、湿っていた。
「ご案内します。音律局の修行者ですね?」
声をかけてきたのは、若い女性の案内人。
けれど、彼女の目は一切笑っていない。
(──形だけの歓迎だな)
蘇芳は頷き、言葉を返すことなく歩き出す。
敷石は磨かれすぎて、足音が吸い込まれていった。
すべてが美しく整いすぎていて、少しも“乱れ”がない。
(……違和感のない世界ほど、どこかが異常なんだ)
風の楼。
そこで蘇芳は、ようやく“彼女”に再会する。
真木あやの。
一瞬、言葉を失った。
まるで、風に解ける音そのものが、そこに佇んでいるようだった。
「……あ」
あやのが気づき、わずかに目を見開く。
その目の奥に、一瞬の揺れ──そしてすぐに、礼儀正しい笑顔が咲く。
「蘇芳……さん、ですよね。司郎さんの……」
「うん。久しぶりだね。元気そうに見えるけど」
その言葉に、あやのは「はい」と答えた。
ただ──蘇芳の耳には、その“はい”にだけ音の影が混ざっていた。
(……響きが浅い。まるで、内側に空洞があるような……)
蘇芳は、その微細な「嘘」を聴き取っていた。
夕刻、あやのに案内されるまま王宮に入ると、そこには、まるで夢から抜け出してきたような男がいた。
──月麗。
「ようこそ。蘇芳といったね。話には聞いているよ。
“音を視る耳”を持つ、特異な青年だと」
微笑み、軽く頭を下げる所作に、まるで隙がなかった。
けれど蘇芳は、その声を聴いた瞬間に理解していた。
(この人……言葉に、感情の“重さ”が無い)
礼儀正しい。調和的だ。
けれど、それは“人”の話し方じゃない。
例えるなら──繭の中から、糸をほどくような。
それは、対象を包み、癒すように見せかけて、少しずつ支配し、絡め取り、選択肢を奪う話し方だった。
「……“あなた”の言葉は美しいですね」
蘇芳が返すと、月麗はわずかに瞳を細めた。
「君には、そう見えるかい?」
「いえ、“見える”というより、“聴こえる”んです」
「……ふふ、面白い表現をするね」
──警戒した。
今のは、音の裏に、ほんのわずか“針”があった。
蘇芳は悟った。
この王は、感情の揺れを極端に嫌う。
だからこそ、あやののような“繊細な感性の持ち主”を「自分の手元で囲いたくなる」。
あれは愛ではない。
呼吸の支配だ。音の囲い込みだ。
あやのと再び短い対話を交わす。
彼女は笑う。言葉を尽くす。
けれど──彼女の歌には、“出口”がなかった。
(この人……“助けて”って言えなくなってる)
言葉に頼らずとも、音の端に出るはずの微細な不安が、見事に消されていた。
蘇芳は、そっと幸の頭を撫でた。
幸は、静かに彼を見つめ、喉を低く鳴らした。
──この犬は、すでに気づいている。
深夜。風の楼の屋根の上で、彼は空を見上げながらつぶやいた。
「真木あやの──あんたは今、“誰かの呼吸”で生きてる。あんたの音は、あんたのものじゃなくなりかけてる」
夜の空は、あまりに静かだった。
「俺が来た意味、あんたが思い出すように仕向ける。
司郎さんはそのつもりで、俺を選んだんだ」
風が抜けた。
その風は、まだ“自由”の名残を抱いていた。




