第四十七章 呼吸の間(いとま)
朝の光が、風の楼の朱塗りの柱を斜めに染めていた。
露を含んだ風がすり硝子の窓をうっすら曇らせ、細く開けた隙間から、甘い果実のような香りが忍び込む。
あやのはいつものように目覚め、ゆるく寝台を抜け出すと、足元で寝息を立てていた幸がぴくりと耳を立てた。
「おはよう、幸」
やさしく頭を撫でると、幸は尾を小さく振ってから、立ち上がり、静かに扉のほうを見つめた。
「……ん?」
ノックの音はなかった。
けれど、そこにはすでに──月麗が立っていた。
「……おはよう。ちょうど起きたところだった?」
「……はい」
あやのはゆっくりと表情を整えながら、布を羽織った。
「朝の薬膳粥、仕立てさせたんだ。今日は白龍茸を入れてる。君、疲れてるように見えたから」
「……ありがとうございます。そんなに、疲れてるように見えますか?」
「うん。……僕には分かる」
月麗は、そう言って少しだけ視線を伏せた。
その睫毛の影が、やけに長く見えた。
その日からだった。
──あやのの一日の予定が、すべて「月麗の手配」で組まれるようになったのは。
龍仙洞での研修、薬草園の見学、王室学府での調査許可──
すべてが整えられていた。いや、整えすぎていた。
行く先々には必ず案内人がいて、あやのの「偶然の出会い」は消えていた。
話しかけてくる者も減った。
皆、どこか一歩引いて、微笑みだけを向けてくる。
(……風の流れが、変わった)
胸の奥で、小さな警鐘が鳴りはじめる。
夕暮れ。久々に調音の間を訪れると、そこには月麗が先にいた。
「君がまた来る気がして、待ってた」
その声はやさしい。けれど、その背には奇妙なものがあった。
──あやのが先日書きかけていた手紙の草稿。
それが、きちんと“写されて”、飾られていた。
「……これ……」
「見つけたとき、君が何を考えていたのか、少しだけ知りたくなってね。勝手なことをしたと思ってる。ごめん。でも、言葉って大事だから」
あやのは小さく首を振ったが、その動きには曖昧な迷いがあった。
月麗は、彼女の前に立ち、微笑んだ。
「誰かに向けた言葉は、同時に“君自身”への祈りでもある。……なら、僕は、君の祈りを“守ってあげる者”でいたいと思ったんだ」
──その瞬間。
あやのの中にあった空気が、少しだけ「熱を持った壁」のように広がった。
彼は、やさしさの顔をしたまま、境界を踏み越えつつあった。
夜、寝台のそばで眠る幸が、寝返りをうつあやのの顔をそっと覗き込み、ぴたりと身を寄せる。
まるで、何かを守るように。
(……どうしたの、幸。なにか──)
あやのはふと、自分の吐息が浅くなっていることに気づいた。
風が、通らない。
香が、濃すぎる。
──まるで空気そのものが、誰かの「手」のようになっているような。
(ここは、私の居場所……のはずだったのに)
あやのは、薄く目を閉じた。
そのまぶたの裏に浮かんだのは、東京の朝焼けと──司郎さんの呆れた顔だった。
(……もう一度、あの人たちに会いたいな)
その思いが、胸の奥に灯り始めていた。




