第三十五章 着工の朝、風は東から
春が微かに香る東京の朝。
旧・蔵前コンサートホールの前には、養生幕と足場材、仮設プレハブが立ち始めていた。
周囲の民家や商店街の住人たちは、ここが工事現場になるとは思いもよらなかった様子で、通りすがりに足を止めては掲示された計画案の前に立ち尽くしていた。
「またマンションかと思ったよ……」
「ホール? もう何十年も入ってなかったなあ」
「でも、東堂先生が関わってるなら期待できるかもな」
そんな声が、地元の人々からぽつりぽつりと聞こえてくる。
出るビルからやって来たあやのと梶原は、すでに着工前の最終確認のために、現場入りしていた。
司郎は前日から現地入りしており、朝から鉄骨と基礎の接合部について監督と話し込んでいた。
「おっそいよ、あやの」
司郎が日焼け止めも塗らずに腕を組み、眉間にしわを寄せて振り返る。
「朝、納豆切れてました。買ってたら遅れました」
あやのはスッと頭を下げ、次の瞬間には足場の下を器用にくぐり抜けて、中央ホールの床部分へ。
そこにはすでに、薄く埃を被ったピアノが静かに残されていた。
前回の調査時、浄化を終えてなお、誰かを待つように沈黙していたその黒光りする塊。
「おはようございます」
あやのは、ぽつりと囁くように挨拶した。
不思議と音は反響せず、ただ彼女の胸の奥で波のように返ってきた。
工事は序盤──解体と強化補強を並行で進める工程だ。
一見すると「壊す」ように見える作業だが、あやのにとっては「目覚めさせる」ような気がしてならなかった。
その日、ホールには静かな事件が一つ起こった。
地下倉庫の調査中、作業員が急に倒れ、錯乱状態に陥ったのだ。
「なにか……聞こえる……音が……誰かが弾いてる……!」
彼は震えながらそう呟き、ストレッチャーに乗せられて救急車で運ばれていった。
あやのと司郎が地下に降りると、空気は確かに変わっていた。
冷たい。音のない冷たさだ。
だが、瞳の奥、彼女の胸の内では確かに“低音”が蠢いていた。
それは、未練ではなかった。もっと濁って、もっと深い──
「……この下、もう一層あるな」
司郎が呟いた。
「地下の地下……ですか」
あやのは、階段のないその“空間”を感じながら、目を細める。
旧蔵前ホールは、まだ全てを明かしてはいなかった。
そして音の回廊の底に沈んだ、最後の“音の主”が、ようやく目を覚ましかけていた。