第四十五章 籠の外、君の影
夜更け。
風の楼には、静かすぎるほどの沈黙が流れていた。
あやのは、机に伏せたまま、いつの間にか眠っていた。窓の外では、雲が切れ、淡い月が照らしていた。
──その扉が、音もなく開く。
「……寝てるのかと思った」
声に、あやのはゆっくりと目を開けた。
そこにいたのは、月麗だった。
白い衣に身を包み、手には小さな包みを抱えていた。
「薬湯……じゃないよ。今夜は、ただの蜂蜜菓子。眠れない夜には、甘いもののほうがいいって、誰かに聞いた」
あやのは黙って彼を見つめた。
月麗はその視線に耐えるように、一歩、また一歩、静かに部屋へと入ってきた。
「……君に、ひとつだけ話したいことがあって来たんだ」
「私ね、兄がいたんだよ。正確には“いたはず”なんだけど、あの人は龍界の“戦律”に呑まれて、自我を喰われた。それ以降、記録にも残らない、なかったことにされた兄だった」
「私はその後継として、形だけ“王族”として育てられたけど、龍としての純度も低くて、力も中途半端で、ただ、歌や言葉の記憶力だけはやたらとあった」
彼の指が、自分の胸元に触れる。
「私はね、あの日からずっと思っていた。
──誰かを守れる“自分の声”が欲しい、って」
「兄は孤独に死んだ。彼の手を取ってあげられたら、救えたんじゃないかって、そんな風にずっと、思い込んでいた」
沈黙が降る。
「だから……君がここに来たとき、怖かったんだよ。あのときの私と同じ目をしてた。無理して笑って、音に逃げて、でもちゃんと苦しんでた」
「私は、もう二度と見失いたくなかった。
君の光を、手放したくなかった。君の歌が私に届く限り……私は、私でいられる気がしたんだ」
「……あなたが“守りたい”と思ったのは、私じゃない。あなた自身の、後悔ですよ」
その声は静かだったが、凛としていた。
「あなたの中にいる“兄”の影を、私で埋めようとしないで。私は、誰かの代わりじゃない。あなたを癒すための存在じゃ、ないんです」
月麗は、しばらくのあいだ微動だにしなかった。
やがて彼は、菓子の包みを机にそっと置く。
「……わかってる。わかってるよ、本当は」
「でも、それでも……あの夜、君の歌声が、私の孤独を溶かした。たぶん私は、その声に救われた“もう一人”になりたかったんだ」
彼は立ち上がり、扉へ向かう。
「ありがとう、あやの。君は強い。
私は──どうしようもなく、弱かっただけだ」
月明かりが、彼の背を淡く照らした。
「おやすみ」
そう言い残して、月麗は去っていった。
あやのは、その場から動けなかった。
幸が足元に頭を寄せ、しずかに目を細める。
(この人は……きっと、ずっと、愛されたいと思ってたんだ)
あやのは、包みをそっと開いた。
中には、ほんのりと蜂蜜の匂いのする、小さな龍型の干菓子があった。
それは、どこか“子どもが拙く作った”ような、いびつな形だった。
(ありがとう、月麗さん……でも、私は──)
その続きを、あやのは言葉にはしなかった。
ただ、風の音が、すこし優しくなった気がした。




