第四十四章 やさしさの檻
風の楼に戻ると、すでにテーブルの上には
──誰にも知らせていなかったはずの
「公聴殿でのあやのの発言内容を反映した書物」や、
「今日の視察で交わした研究者の名前リスト」が整然と並べられていた。
「……これ、どうして」
「僕が整理しておいたよ」
月麗は笑顔で言った。
涼やかな茶器を並べ、あやののためにいつもより濃い薬膳湯を淹れている。
「君が疲れているのは分かってる。こういう雑事は僕がやっておくから。
大事なのは、君が“音”に集中できること。ね?」
その声は、やさしい。どこまでも穏やかで、気遣いに満ちている。
けれど、あやのの中に、ふと冷たいものが走った。
──私、まだ誰にもこのこと話していないのに。
龍仙洞・中央文庫
翌日。
あやのは独自に調べものをしようと、中央文庫へ足を運ぶ。
だが、門の前で、従者が申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません。真木あやの様の文庫閲覧は、本日“制限”となっております」
「……どうして?」
「上層からの指示でございます。“必要な文献は月麗殿より貸与される”とのことで……」
あやのは言葉を失った。
風の楼・夜
あやのは、リュートに触れる気にもなれず、ぼんやりと窓辺に腰を下ろしていた。
幸が静かに寄り添う。
ただの警戒ではなく、何かを察しているような、守ろうとするような。
そのとき、月麗が何も告げずに部屋に入ってきた。
「ごめん、驚かせたね。鍵は……僕の魔紋で開けた。ああ、心配しないで。君の安全のためだから」
その手には、また新しい薬湯と甘味があった。
「文庫のこと……気にしてる? あそこは“古い情報”も多いから、誤解を生むかもしれない。君には、もっと信頼できるものだけを読んでほしい。僕の監修した文献なら、確実だよ」
あやのは、ゆっくりと立ち上がった。
「月麗さん……今、私が何を感じてるか、分かりますか?」
その問いに、月麗は一瞬だけ、瞳を伏せた。
そして、まっすぐな笑顔を浮かべる。
「もちろん。僕は君のすべてを、理解してるつもりだよ」
──その瞬間、あやのの中で何かが、微かに「軋んだ」。
(この人は、わかってなんかいない)
翌朝:司郎と梶原への手紙(草案)
……お二人とも、お元気でしょうか。
龍界での生活は、学びに満ち、また不思議な静けさと圧力に満ちています。
私はいま、自分が何者で、何を選ぼうとしているのかを、少しずつ確かめようとしているところです。
けれど、少しだけ疲れてしまう夜もあります。
もしも──もしも、私が「音」を見失いそうになったら、どうかそのときは、怒ってください。
あの時のように。あの場所のように。
──その手紙は、まだ出されていない。
あやのの枕元に、そっと畳まれたまま残っていた。




