第四十二章 龍仙洞・裏手の泉にて
龍仙洞の裏手には、知る者の少ない小道がある。
竹の葉が風に鳴り、鳥も鳴かないほど静かな場所。
その先にひっそりと佇むのが──**澄泉**と呼ばれる、月の光を蓄える泉だった。
その朝、あやのはリュートを抱え、幸を連れてその泉に足を踏み入れた。
まだ朝靄が薄く漂い、水面がまるで鏡のように景色を映している。
そこに、すでに月麗がいた。
彼はいつもの礼装ではなく、ゆるやかな内着に身を包み、裸足で岩の上に腰かけていた。
その姿は、まるで人ではなく、湖に棲む神獣のようだった。
「来てくれて嬉しいよ」
彼は微笑み、あやのの隣に空けてあった場所を指さした。
「今日は……何も求めない。ただ、君とこの景色を共有したかった」
あやのは黙って座り、リュートを膝に置いた。
風が竹林を揺らす音、幸が泉の縁で水を舐める音だけが響く。
しばらくして、あやのは静かに弦を爪弾いた。
音は風に溶け、やがて泉を伝い、空へと昇っていく。
「……それは、昨日の歌の続き?」
「……いえ。これは、いま浮かんだばかりの旋律です」
月麗は目を閉じたまま、聴いていた。
まるで、心臓の鼓動を直接聴き取ろうとするかのように、深く、丁寧に。
そして──
「君が奏でる音は、どうしてこんなにも胸を締めつけるんだろう」
ぽつりと、彼は言った。
「私はずっと、君のような“透明な存在”に憧れてきた。孤独や痛みすら、君の声の中では美しさに変わる。それはね……私には、できなかったことなんだ」
その声には、どこか幼さすら滲んでいた。
あやのは手を止めた。
「……月麗さんは、たくさんの人に慕われている。
皆、あなたの存在に救われていると思います。私も……そうでした」
「“でした”?」
「……少し、こわくなったんです」
その言葉に、月麗の手がぴたりと止まった。
「あなたの優しさは……とても近くて。でもその近さが、私の呼吸を奪うことがある。それをあなたは、気づいていない気がして」
しばらくの沈黙。
そして月麗は、ふと手を差し伸べた。
「じゃあ……どうすればいい? 君が、私のそばにいても息苦しくないようにするには」
あやのは、その手を見つめた。
それは決して強引ではなく、ただ、そっと差し出された“祈り”のようだった。
「……まだ、答えは出ません。でも、あなたがその手を引っ込めずに待っていてくれるなら……たぶん、私は逃げません」
月麗はそっと微笑み、手を引いた。
「わかった。待つよ。いくらでも。
君の音が、また私に届くまで──私はここで待ってる」
幸がそっとあやのの膝に鼻を押しつけた。
あやのは目を閉じ、再び指を動かし始めた。
今度の旋律は、少しだけ光を含んだ、前向きな調べだった。




