第四十一章 風の楼・朝の庭先にて
朝露が石畳をうっすら濡らし、龍界の空はまだ柔らかい藍色を残していた。
あやのは湯を沸かしながら、昨夜のことを少しだけ思い返していた。
リュートに込めた想い。
言葉にできないまま歌になった気持ちは、どこへ消えたのだろう。
と、そのときだった。
「……とても、綺麗だったよ」
振り返ると、庭の方から静かに月麗が現れた。
朝の光に金糸の衣が反射し、彼の輪郭はまるで幻のように儚く見えた。
「……いつから、いたんですか?」
「ちょうど月が高くなった頃かな。
君の歌声が、風に乗って聞こえてきて……つい、庭の陰から耳を澄ませてしまった」
あやのは口を結んだまま、火の番に視線を戻す。
だが月麗は、静かに歩み寄って、あやのの隣に座る。
「“ありがとう”を言いたいけど胸が沈む、って……あれは、私のこと?」
「……そんなふうに、受け取らないでください」
「でも、そう聞こえたよ」
あやのは言葉を詰まらせる。
月麗の声はやわらかく、押しつけがましさはなかった。
けれど、彼の眼差しは深く、何もかもを見通してくるようだった。
「ごめん。私は君にとって、重たすぎるかな」
「……いいえ、そんなこと……」
「でも、私は怖いんだ」
月麗の声は、ふっと掠れた。
「君が、私の知らない想いを抱えて、どこか遠くへ行ってしまうんじゃないかって。
君の中の光が、私を照らす場所から、だんだん離れていってしまう気がして」
あやのは手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「私は……今、ここにいます。まだ何も、決めてない」
月麗はあやのの瞳を見つめ、微笑んだ。
その笑みは美しく、それでいて、どこか切実だった。
「……そっか。それで十分だよ。君の歌声を聞けただけで、私は救われた」
ふいに彼は立ち上がり、日が昇る東の空を仰いだ。
「じゃあ、今日は朝食はやめにして散歩にしよう。龍仙洞の裏にね、泉があるんだ。
静かで、誰も来ない。歌の続きを聞かせてほしいな。君が望むなら」
あやのは答えなかった。
ただ、リュートを抱えて立ち上がり、幸の頭を軽く撫でた。
彼女の足取りは、昨日より少しだけ、迷いがなかった。




