第三十九章 心臓の鼓動
龍仙洞の夜は早い。
霧がかかると、すべてが静まり返る──はずだった。
けれど、風の楼だけは違った。
月麗が持ち込んだ朝粥と薬膳の湯気が、朝焼けより先にあやのの部屋に立ちこめる。
香りは優しく、手際も完璧で、まるで古くからの夫婦のような馴染み方だった。
「昨日の薬、効いたでしょ? 睡眠の深度はどうだった? 夢は?」
「……月麗さん、朝からずっとそばに……?」
「そりゃそうさ。君が疲れを引きずったまま次の授業に向かうのは忍びないからね。ねえ、次は“心臓薬”の実習だよ。知ってるかい? あれを失敗すると、相手の命に関わる」
にこりと笑うその表情には、あやのを思う気持ちと、強すぎる“保護欲”がにじんでいた。
あやのは返事をしないまま、そっと器を置いた。
幸が静かに足元に寄り、月麗をじっと見ている。
唸りはしない。だが、距離を詰めさせようともしない。
「……ありがとう、でももう行く時間です」
そう言ってあやのは身支度を整え、風の楼の玄関を出た。
月麗はついてこようとしたが、幸が前に出て道を塞いだ。
「ああ……そう、じゃあ、今日は待ってる。終わったら迎えに行くから」
彼は寂しそうに微笑みながら、階段の上からあやのの背中を見送った。
龍仙洞・心臓の間
龍仙洞のさらに奥、誰もが入れるわけではない調薬殿──「心臓の間」。
そこには巨大な調合炉があり、大小様々な龍薬器具が整然と並んでいた。
気を抜けば気圧で耳鳴りがするような、濃密な“命の空間”。
「……よう来たな、あやの」
千蔵が低い声で言う。
「ここは龍界の核だ。今日お前が扱う薬は、“心拍の律動”を整える霊薬。つまり、命のリズムそのものを支えるものじゃ」
あやのは目を見開く。
(そんな……それを、私が?)
「見習いと言えども、実地を踏まねばならぬ。
君が“調和”を読めると知ってから、上からの要望も強くなっておる。この薬は、たったひとつでも音律を外せば──毒と化す」
石の台に、五種の薬材が置かれた。
火竜の肺に育つ紅脈草
水の結晶と同化した清胆のしずく
時の流れに逆らって咲く輪戻花
龍胎の香
そして“鼓動”を引き出すための媒介──あやの自身の「声」
「五感ではなく、“六感”を使え。君にしかできぬやり方で、この薬を調合するのだ」
あやのは深く息を吸った。
星眼は使わない。使えばわかってしまう。
けれど──今は、あの感覚を信じたい。自分の内にある、音の輪郭を。
火を焚き、香を合わせ、リズムを測りながら、声を──ひとつ、ひとつ、重ねる。
まるで、心臓の中に手を入れて音を探すような作業だった。
(音を合わせる。鼓動に寄り添う。命を邪魔しない──)
数刻後。
青白く光る小瓶の中で、液体が静かに震えていた。
千蔵はそれをじっと見て、何も言わずに長く黙った。
やがて、
「……この“律動”は、真に命に沿う」
「成功……ですか?」
「成功じゃ。しかも、見習いにしては異常なほどの精度だ」
あやのはようやく手を離し、ほっと息をついた。
その時。
「──終わった?」
振り返ると、扉の隙間に月麗がいた。
いつからそこにいたのか。息を呑むほど静かに、しかし確かに見つめていた。
「すごいね。……君の声で命が震えた。僕には分かる。これは……美しい調和だ」
そして近づくと、千蔵の前で小さく礼をした。
「この子は、まだまだ伸びます。僕が責任を持って育てます」
「……そうか」
千蔵は不満そうに目を細めたが、何も言わなかった。
あやのは少し居心地悪そうに、月麗からそっと距離を取ろうとしたが──
「帰ろう、風の楼に。今日はきっと、君の身体も疲れてる。夕食は僕が作るよ。君の好きな甘味も用意してある」
笑顔で伸びてくる手。
その手を、あやのはしばらく見つめていた。
(この人は、私を大切にしてくれてる。……でも)
(どこか、息が詰まる)
幸が足元で、さりげなくあやのの足に鼻先を寄せた。
あやのはふっと目を伏せ、月麗に言った。
「……ありがとうございます。でも、今日は自分で用意します。今は……ひとりで考えたい」
その言葉に、月麗はしばし目を瞬かせ、そして優しく笑った。
「そう……そうだね。ごめん、少し、張り切りすぎた」
その言葉は柔らかく、だが明らかに“寂しさ”を滲ませていた。
(まるで、こちらが悪いことをしたような気分になる)
あやのはそっと、その背に向かって一礼だけして、風の楼へ戻っていった。




