第三十二章 龍界・初授業──風の調薬と呼吸の知
朝霧がまだ低く漂う中、あやのは龍仙洞の奥にある“学びの間”にいた。
香木の机が円形に並び、中央には香炉が据えられている。
部屋の天井は高く、風が抜ける設計になっており、時折、天井の飾り龍が微かに鳴った。
そこに、彼──**講師・千蔵**が現れる。
鱗の混じった半龍人の姿。白髪に見える長い鬣と、細く鋭い眼差し。
歳は不明だが、佇まいからして数百年の知識を湛えていることがわかる。
彼は無言で香炉の火をくべ、香を焚く。
煙がゆるやかに空を舞い、香りが広がる。
「真木あやの」
名を呼ぶ声は低く、しかし穏やかだった。
「今日の学びは、“調薬の基本と呼吸の一致”」
そう言って、彼はあやのの前に、一輪の花を置いた。
白い花弁、淡い青の筋が走る──それは、**龍界特有の生薬“風華草”**だった。
「これを、ただ潰すのではなく、“音”と“気”を合わせて抽出してみなさい。
君のハミングと、風の流れが合えば、この草は香りを変える。
合わなければ……ただの雑草に戻る」
「音で……草の力が変わるんですか?」
「ああ。龍界では、調薬は“音”と“息”が鍵になる。
なぜなら、龍とは風であり、呼吸であり、音そのものだからだ」
あやのは静かに息を吸い、
手元の草を両手に挟み、そっと声を発した。
──ふう、と吐く息に乗せるように、やわらかなハミング。
ひとつの音から、次第に旋律が芽吹いていく。
「……ふむ」
千蔵の目が、わずかに細くなる。
草が、ほんのりと金の香気を放った。
(──変化した!)
あやのの心に驚きと喜びが混じる。
けれど、次の瞬間。
「ワン!!」
幸が急に吠えた。
その気配にあやのの呼吸が乱れ──草はしゅんと萎れた。
「……今のが“失敗”だ」
千蔵の声は叱るのではなく、ただの観察として告げた。
「調薬とは、自と他、内と外の“気”を調和させること。
気が乱れれば、薬は乱れ、毒となる」
あやのは静かに頷いた。
(……集中。私の声と、風と、草と、すべてを調和させる)
もう一度、息を吸い、歌う。
今度は、先ほどよりもわずかに強く、しかし穏やかに。
風が、音を包み、草が香を開き──
ほんの数秒後、花の中央が淡い金色に変わった。
千蔵が初めて、うっすらと口元を緩める。
「“開いた”な。……よかろう。これが、龍界の調薬の“入り口”だ」
あやのは花を見下ろし、そっと微笑んだ。
「……ありがとう、先生」
後ろで幸が、静かにしっぽを振った。
その日の授業は、花ひとつを通じて、ひとつの“気”を知ることだった。
だがそれは、あやのにとって、記録者としての研鑽ではなく、
“いち学び手”として、世界に向き合う新しい始まりとなった。




