三十章 風の楼──龍界の仮住まい
龍仙洞から少し離れた高台に、その楼閣は建っていた。
「風の楼」と名付けられたその建物は、赤い柱と白木の梁を持つ、三層の木造楼閣。
建材には香木が使われており、そばを通るだけで仄かな清香が漂う。
屋根には風鈴のような小さな金属の龍飾りが吊され、風が吹くたび澄んだ音を奏でる。
月麗は、振り返ってあやのに言った。
「ここが、君の部屋。滞在中は自由に使って。……気に入ってくれるといいな」
扉を開けると、吹き抜けのような空間に、柔らかな風が舞い込んだ。
部屋の中央には、低く広い寝台。
片隅には香炉と書架。
窓の外には、霧に包まれた龍界の山並みが遥かに望めた。
そして──
部屋の奥、繊細な彫金の棚の上に、ひときわ目を引くものが置かれていた。
──それは、美しいリュートだった。
胴は滑らかな梨の木。
弦は龍毛と呼ばれる銀色の絃で張られ、
龍の文様が、音孔の周囲に精緻に彫られていた。
「……これ、私に?」
「ああ。前に、君の“ハミング”を聞いた時、どうしても贈りたくなった。このリュートは、空の風で調律されてるんだ。音が風に溶けていくように、君の声ときっと合うと思う」
あやのは、そっとその楽器に手を伸ばした。
指先が木に触れた瞬間──まるでそれが、生きているかのように、ほのかに震えた。
「……きれい」
そう言って、膝の上にリュートを抱え、
あやのは静かに、ひとつ音を鳴らす。
低く、柔らかく、空に溶けるような響き。
ふたつ、みっつと、弦を爪弾き──
自然と、声が溢れ出す。
あやのは歌った。
龍界の風に包まれて、心のままに。
言葉にならない旋律。
でも、確かに“誰か”に届くように。
静かな時間が、楼閣を満たしていく。
風が、彼女の声とともに踊る。
そして──
外にいた月麗が、ひときわ高く風鈴が鳴った瞬間、
目を細めて、そっと呟いた。
「……やっぱり。君の声は、どこにいても、僕の中の“何か”を揺らすんだよな」
忠犬・幸が、その背後で「ウゥ……」と小さく唸ったのは、
その“何か”が信用できないからに違いない。
でも今はただ──
あやのの声だけが、龍界の夜を照らしていた。




