第二十七章 旅立ちの朝
朝靄がまだ晴れきらぬ、魔界の朝。
空の色は人界よりも深く、ほんの少しだけ“紫”が混じっていた。
それはまるで、夜の記憶をまだ手放したくないような空だった。
館の中庭に、ひときわ大きな“風の渦”が起こる。
その中心に現れたのは、銀青の衣に身を包んだ、龍界の使いたち。
美しく均整の取れた青年が、一歩前へ出て恭しく頭を垂れる。
「真木あやの様。
月麗様よりの迎えに参上いたしました。ご準備のほど、よろしいでしょうか」
声は静かで、まるで楽器のように澄んでいた。
あやのは黙ってうなずき、扉の前に立つ。
背には軽い旅装。
衣には、魔界の花布で仕立てた白い外套。
足元には「幸」──黒くしなやかな忍犬が、しっかりと寄り添っている。
中庭に出ると、魔界の重鎮たちがすでに顔を揃えていた。
年嵩の学者。
魔界薬師の長。
言葉少なな評議会の老魔たち。
そして、あやのの記録を支える各分野の賢者たち。
皆、一様に深い礼をとる。
「記録者殿。このたびの旅立ち、我ら一同、心より尊び申し上げます」
「龍界にて得られた知が、またこの地を照らす灯火となりますように」
あやのは一人ひとりの顔を目に焼きつけるように見渡し、静かにうなずいた。
「……ありがとうございます。必ず、戻ってまいります」
その瞬間──彼女の足元の花が、風に揺れ、わずかに煌いた。
まるで送り火のように。
だが、彼の姿はそこになかった。
梶原國護は──見送りには来ないと、そう決めていたから。
けれど。
あやのが、使いの者たちに向き直り、「行こう」と一歩を踏み出したその時だった。
中庭の端、ひとつ影が動いた。
──黒衣の男が、低木の陰からそっと出てきた。
「梶くん……?」
声が漏れた瞬間、あやのは駆け寄っていた。
「来ないって……言ってたのに……!」
「……門の外までは行かない。……でも、顔だけは見ておきたかった」
そう言って、彼はすっと、あやのの髪に触れた。
「おまえの髪、少し伸びたな。……きっとまた、伸びるんだろう。帰ってきたら、切ってやる」
「うん」
「“幸”を頼るのはいい。でも……無理だけは、するなよ」
「うん……!」
あやのの目が潤んだ瞬間、彼はそっと抱き寄せた。
人目もはばからず、ただ無言で、しばらくそのまま──
あやのは、彼の腕の中で震えながら、小さな声で言った。
「……だいすき」
「俺も。行ってこい、あやの」
そして、腕を解く。
彼の瞳の奥に宿るのは、ただまっすぐな信頼だけだった。
龍界の使いが結界を開く。
霧のように現れた光の門の向こう──そこに、新たな世界が待っている。
あやのは一度、深く息を吸い込んだ。
足元の幸が、その気配を察して、軽く鳴いた。
「行こう、幸」
一歩、また一歩。
そして、あやのの背が、光の向こうへと消えていく。
彼女の旅路は、ここからまた──
新たなページへと記されていく。




