第二十六章 しばしの別れ、その夜
その夜、あやのはなかなか眠れなかった。
眠る努力をすればするほど、まぶたの裏に梶原の顔が浮かんでくる。
明日、彼の隣に自分はいない。
ただ、それだけのことが、こんなにも胸に重くのしかかるなんて──。
「……ちょっとだけ」
そう呟いて、寝室を抜け出した。
館の奥、梶原が仮の寝所にしている小部屋。
夜灯の洩れる扉の前で、あやのは軽くノックした。
「……起きてる?」
扉の向こうから、すぐに返事があった。
「開いてる」
そっと戸を引くと、そこにいたのは、上着を脱いでくつろぎながらも、背筋をまっすぐにして座る梶原國護。
彼の姿を見た瞬間、あやのの胸に、張りつめていた何かがほどけた。
「あのね……少しだけ、そばにいてもいい?」
その言葉に、梶原は立ち上がると、何も言わずにあやのの手をとった。
そのまま、部屋の奥にある敷き布団へと導く。
あやのが座ると、梶原は彼女の髪をそっと撫で、後ろから抱きしめるように腕を回した。
「……ほんの少しだけ、って顔じゃないぞ」
「……うん。ほんとは、ずっとくっついてたい」
あやのの小さな声に、梶原の腕の力が少しだけ強くなる。
耳のあたりに、彼の吐息が落ちる。
「じゃあ、くっついてろ。俺が離さない」
頬を寄せ、あやのの髪をゆっくりと撫でる指先。
その動きは、愛しさを伝えるようで──それでいて、どこか“さよなら”に似た優しさを含んでいた。
「……あっちに行っても、わたし、変わらずにいるから」
「変わるよ。ちゃんと変わってくる」
「え……?」
「世界が広がる場所だろ。おまえは、そこでもっと強くなる。……変わることは、悪いことじゃない。俺はそれでいい」
あやのは、ぐっと目を閉じて、振り返る。
「……でも、梶くんがいないと、わたし、さみしいよ」
その言葉を受けて、梶原は一瞬だけ表情を揺らした。
それでも、穏やかに笑ってあやのの頬に唇を寄せた。
「さみしくさせないように、毎晩“幸”に伝言頼んどくよ。『梶原は元気だ、早く帰ってこい』ってな」
「……それ、ちょっとずるい……」
「おまえもずるい」
そう言って、額に触れるようにもう一度、キス。
あやのが身を寄せれば、彼の腕は自然とその背中を包む。
しばらく、言葉はなかった。
ただ、肌のぬくもりだけがふたりをつないでいた。
やがて、あやのの指先が、彼の胸元の布をきゅっと掴む。
「……出発、見送りには来る?」
「来ない」
「えっ……」
「来たら泣くだろ。……それは嫌なんだ」
そう言って、梶原は目を伏せた。
あやのはその顔を見つめて、そっと頷いた。
「……うん。なら、手紙書くね。いっぱい、書くから」
「ああ。毎晩読む。何度でも」
少しだけ鼻を鳴らして笑い合い、そして──
ふたりは、その夜を、離れがたい想いのまま過ごした。
重ねた手。寄せた額。交わすキスの数。
それは、未来へ続く誓いのようで。
今だけに許された、確かな別れの準備だった。
夜が明ける頃、あやのはすでに、梶原の胸の中で静かに眠っていた。
彼はその髪を何度も撫でながら、声にならない言葉を唇の内に沈めていた。
──気をつけて、行ってこい。
──必ず、帰ってこい。
心の声だけが、あやのの夢に届くように。




