第二十三章 仮の決意の夜
夜の帳が降りきった頃。
魔界の館には、虫の声ひとつ聞こえなかった。
風もなく、雨の気配もない。
ただしんとした“音のない夜”だけが、空間を満たしていた。
あやのは書斎を出て、廊下を静かに歩いた。
足音を消すのが癖になっていたけれど、今日はなぜか、わざと小さく音を立てて歩いていた。
──確かめたかったのかもしれない。
自分がまだ、ここにいることを。
やがて館の裏庭に出ると、焚き火のほのかな明かりが、ひとつだけ揺れていた。
そこにいたのは梶原國護だった。
焚き火の前に正座し、両手で火を守るようにして座っている。
その隣に、護衛犬・幸が丸くなって眠っていた。
「……起きてたんだ」
あやのの声に、梶原は振り返らずにうなずいた。
「……火が、落ち着かないだったから」
その言葉に、あやのは小さく笑った。
「……わたしも。なんだか、眠れそうになくて」
焚き火の対面に腰を下ろすと、火の色が、互いの顔を赤く照らした。
しばらく、言葉はなかった。
パチ、パチ、と薪がはぜる音だけが、時間を刻む。
あやのは、膝の上で手を組んだまま、ふっと息を吐いた。
「……ねえ、梶くん」
「ああ」
「もしも、わたしがいなくなったら──
この火も、しずかに消えてしまうと思う?」
その問いに、梶原は目を細め、少しだけ火に薪を足した。
「……火は、“燃やす人”がいれば、消えない」
「……そっか」
小さく微笑むあやのの表情には、どこか寂しさがあった。
それでも彼女は、静かに言葉を継いだ。
「……龍界から、親書が来たの」
梶原はわずかに視線を上げたが、驚いた様子はなかった。
ただ、少しだけ唇の端を引き結んだ。
「……そうか」
「留学の打診、だって。ちゃんと“正式に”って。……ふふ、あの人らしい」
あやのは、火の明かりを見つめながら、言葉を紡いでいく。
「今すぐ答えを出す気はないけど……
少しだけ、考えてみようかなって思ってる」
梶原は黙って聞いていた。
「怖くはないの。──ただ、“ここ”から離れるのが、ね。
みんなの声も、温度も、朝の匂いも、知ってる道も……
全部、忘れてしまうような気がして」
その言葉に、梶原はゆっくりと、あやのの隣に腰を下ろした。
「……忘れても、戻れば思い出す。思い出せなければ、また一緒に、歩けばいい」
あやのは、ぽかんと彼の横顔を見つめた。
「……ずるい」
「え?」
「そういう風に言われると、すこしだけ、泣きそうになる」
火が揺れた。
それはまるで、彼女の頬にひとすじ落ちた雫に共鳴するかのようだった。
だが、あやのは泣かなかった。
その代わり、そっと小さく、梶原の袖を掴んだ。
「……“行ってきます”って、もし言えたとしたら。その時は、“いってらっしゃい”って言ってくれる?」
梶原は短くうなずいた。
「もちろん、必ず」
「……約束ね」
それだけ言って、あやのは小さく笑った。
火の明かりの中で、その笑顔は、どこか少しだけ大人びていた。
二人の間に、言葉はもう必要なかった。
静かな焚き火の前で、ただ心が交わる音だけが、夜の帳に響いていた。
そして──
夜が明けるまで、あやのはそこを離れなかった。
焚き火の前で、ただ“確かな何か”を感じながら。




