第二十二章 留学打診/余波
──風が通る廊下に、紅銀の花が一輪、そっと落ちていた。
けれどその花は、しおれることなく、まるで自らそこに“在る”ことを選んだかのように凛としていた。
その日。
魔界の塔の上層階では、重鎮たちによる緊急会合が開かれていた。
「留学、だと……?」
「前例がない。いや、“記録者”が外界に身を移すことなど、想定すらされていなかったはずだ」
「だが、これは“王族代表”名義である。事実上、龍王直命だ。魔界側が拒否する口実は薄い」
机を囲むのは、かつて魔王に仕えた古き氏族、そして現政を預かる魔界評議の長たち。
一人の老魔が、低く唸るように言った。
「──そもそも、“あの子”は誰の眷属でもない。誰も彼女に命じることなどできはせん。忘れるな」
「それでも、あの子がいないことで、“見えなくなること”が多すぎるのです。記録とは、日々の営みの裏側に灯る火。その火が消えれば、我らはただの影法師だ」
静まり返った空間に、誰かがぽつりと呟いた。
「……咲いていたのだな、“紅銀”が」
その言葉に、誰もが一瞬だけ黙した。
紅銀の花──それは「受け取った想いが形となった時」にしか咲かない、と古くから言い伝えられる希少な霊花。
──それが、あやのの元で咲いたという事実が、全てだった。
その頃、梶原國護は、館の裏手で犬の「幸」と訓練をしていた。
「……右」
声の調子ひとつで動きを切り替える幸に、優しく目を細める。
「よし。──休め」
幸はくるりと回って彼の足元に伏せた。
ふいに、背後から気配がする。
振り返ると、司郎正臣が腕組みして立っていた。
「ずいぶんお利口じゃないの、その子」
「司郎……」
「聞いたわよ、留学の話。ま、あの子のことだから、勝手に決めはしないでしょうけど……アンタは、どう思ってるの?」
問いかけに、梶原は少しだけ視線を下げて答えた。
「……“行け”とは言わない。“行かないで”とも、言わない」
「は?」
「ただ──もしも、あやのがその道を選ぶなら、俺はどこまでも護るだけだ」
その言葉に、司郎はひとつ鼻で笑った。
「……ホント、筋金入りね。あたしと同じじゃない」
そう言って、くるりと踵を返し、館の方へと戻っていった。
そして彼の背中越しに、ひとことだけ、ぽつりと残した。
「……大丈夫。あの子は、“帰ってくる子”よ」
──夜。
あやのは書斎の灯を消し、静かに庭を見つめていた。
星の見えない空だったが、不思議と暗くなかった。
紅銀の花は、月も星もない夜にこそ、その色を最も強く発する。
「……龍界、かあ」
あやのの目には、ふと、かつて月麗と語らったあの高台が浮かんでいた。
満天の星の下で、花が咲いた、あの夜のことを。
彼女の瞳は、まっすぐに空の彼方を見据えた。
「“記録すること”の意味が変わるなら──
……“世界の視点”も、きっと変えられるよね」
その呟きには、迷いがなかった。
選択はまだ先。
けれど、心はもう、歩き始めていた。




